山下良道師法話集 | 山下良道師法話まとめ

18/05/13 「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論

18/05/13 「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論

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法話拝聴いたしました。「八大人覚」を丁寧に解説してくださいました。

仏教では慈悲と表現し、キリスト教ではアガペーと表現するもの。言葉が違うから、指しているものも違うのではなく、実際にリアルな慈悲の中に入っていくと不思議な世界が見えてくる。その世界は、仏教限定ではなく、世界中の誰もが入れる世界。だから、違う伝統のなかで、違う言葉の表現を使って同じ世界に入っている。

キリスト教の伝統のなかで、2000年かけて考えてきたこと。とてつもない数の人達が、とてつもない時間をかけて、たっぷりと考えてきたこと。それがイエス様が言われる「わたしはこの世に所属していない」という言葉。

「所属していない」ということを入れるとすべての謎が解ける。初めてマインドフルネスやヴィパッサナー。深層意識や表層意識、微細な身体などすべて整合性がつくのである。

「所属していない私」を知るためにはある一つの方法がどうしても必要。その方法がないとそこに行けなくて分からなくなってしまう。

牢屋に閉じ込められている私達が、そこから解放されたとき、広々とした世界を経験する。一法庵の部屋の中に閉じ込められた人は、一法庵の中しか知らない。しかし、一法庵を出て、太平洋を観ている人は、一法庵の風景と太平洋の風景の両方を知っている。一法庵の外に出ることを拒否して、外を観る誘いに乗らないと、太平洋を観る機会を失ってしまう。

八大人覚、お釈迦様の遺言の中で八つの大事な事を道元禅師が話された。八大人覚とは
1、少欲
2、知足
3、楽寂静
4、勤精進
5、不忘念
6、修禅定
7、修智慧
8、不戯論

少欲、知足は、もっともっという生活から、今この瞬間にに満足する生活にシフトしていくということ。しかし、ただ我慢するというのは違って、そのなかで、寂静というものを感じ、それを楽しむようになる。瞑想の中で入っていく時に感じるすべてが満たされている感覚。そして、それを感じたならば、精進に努める。世間の人がもっと欲しいとがんばっていく生き方ではなく、少欲知足に切り替え、寂静を楽しむ。その方向に精進しよう、ということである。

世間の生き方とは何か。現在の学校制度のなかで勉強は何かをもっとつかむための手段であり、その流れは、会社に入ってもさらに強まる。少欲知足とは真逆の生き方である。

 

そうではない生き方、少欲知足で、寂静を楽しむ。念(マインドフルネス)を忘れない。正しいマインドフルネスを守る。精進すると、世間の人の以上のエネルギーにある方向に入れていく。それは「正しい念を守る」ということ。

そうなったときに不思議な出来事が起こってくる、勝手に禅定に入っていくのである。そして智慧が生じ、その智慧を深めていく。禅定に入ることにより、まったく新しい世界を知る。そのがらりと見えた風景、その理解が智慧である。

 

最後は不戯論。

「証の分別を離るるを不戯論と名付く。究尽する実相はすなわち不戯論なり。」

八大人覚の最後なので、いわば付加的な注意ではない。接心などで、おしゃべりしてはいけない、というレベルの話ではなく、一歩踏み込んでいるのが道元禅師。

分別をはなれると証(さとり)になる。

 

世間においては「分別」はいい意味、仏教になるとネガティブなニュアンスになる。世間では「分別」は物事をきちんと理解しているという意味だが、仏教の領域では別。

第四図の中の世界は自分の思いが作った世界。勝手に映画を作って。我々の苦しみは映画の世界をリアルだと思い込んでいるところが苦しみの原因。その映画から離れたところが「証」つまりさとりの世界である。これが不戯論である。

念を忘れるな、ということは、分別を離れて証に行くために、念すなわちマインドフルネスが必要だということ。

不戯論を、「分別を離れて証に行ける」とはっきりと言えるのは「所属しない」ということが分かって、ようやく全部説明できる。第五図も「所属しない」で全部説明できる。

 

分別の世界を離れる。離れる手段が「念」。でもこの「念」がはっきりしなかったのが日本仏教の歴史。

では、念がはっきりしなかった結果、マインドフルネスによって分別の世界から離れることができなかった時、何が残るのか。

頭の中のグルグルから外へ出るために、どうしたらいいか?身体に戻ればいい、となる。思考の世界、シンキングを止める方法は身体。身体を使ってシンキングを止める。

 

この肉体を極限までいろいろな形で追い込んでいく。徹底的に身体をいじめ尽くして、寝る時間や食べ物を制限する方向性と、この身体はシンキングから離れているから、身体を坐禅の姿勢にすればいいんだよね、という考え方。ここにはマインドフルネスはない。マインドフルネスがなければこの二つの方法しかない。

道元禅師はこんな大事なお経がなぜ無視されてきたのかと、叫んでいる。こんな一番大事なことを誰も知らない。どうしてこうなってしまったのか、と。それを13世紀の半ばに叫んだのだけど、後に残された人達は分からなかった。この遺言を道元禅師そのものだと思って大事にして、守ろうとしてきたのに、理解できなかった。

 

念の重要性が分からなかったのは、なぜ念に離れる力があるのかが説明しきれなかった為。普通のシンキングマインドが気づくなら、その気づきも、シンキングマインド。つまり分別となる。マインドフルネスって分別ではないのか?分別は離れるべき対象であって、手段ではない、となるのが禅僧たち。そして、第五図が単なる肉体とされた。

この念の主体。マインドフルネスの主体がこれが今までの自分だったら分別である。マインドフルネスの主体がはっきりしなかったから、普通のシンキングマインドと誤解されていた。マインドフルネスの主体はこの世に所属していない何か。第五図のポイントは肉体に帰れということではなく、この人は第四図に所属していないことを示している。

第五図を肉体ととる人達は、肉体を動かしている「御いのち」があるという。


それは波と水に喩えられる。大乗仏教では、「波は波のままでよい。本質は水だから。波と水は一つ。それが、坐相という波さえ整えば、そこに水という絶対が顕現してる」と考える。これだと表面的な捉え方で純粋に水を経験することがない。

波という形の中に水という本質がある。水は波には所属していない。これは第四図の私の本質が第五図の私であり、第四図に所属していないということと同じである。波という形の材料は水だけれど、波という形には属していない。水がなければ波ができないように、第五図の私が本質であり、第四図の私は第五図の私との二重構造を生きていて、第五図の私がなければ第四図の形ある私は成り立たない。

 

色と空はまったく別のものである。第五図は肉体ではなく、形のないものであり、私達の本質であり、所属していない。同時にこの世界に所属している。
所属していない私が同時に所属している私でもある。

だから色即是空空即是色である。空の在り方を経験するのはマインドフルになったとき形のない私が同時に形ある世界を生きている私でもある、これが第六図。

 

道元禅師は「究尽する実相はすなわち不戯論なり」とおっしゃっている。

徹底的にこの世界の在り方を極めていったときに見えてくるのがこの不戯論。世界の本当の姿はこうなっているんだよ、という話。それを保証するのがマインドフルネスであり、マインドフルネスに出会ったときに分別を離れる。マインドフルネスの主体はこの世界に所属していないから分別を離れることができるのである。

これだけ重要なことを叫ばれながらも伝わってこなかった。
怠けていたわけではなく、念の主体が分からなかった。
マインドフルネスを使って証の世界に行ける。

 

たいへん丁寧に八大人覚を解説していただき、しっかりと理解することができました。いままでもやっとしていた「精進」の意味がよく理解できた事が本当に嬉しいです。以前は怒りをなくそうとする努力であったり、偏りなく観ようという努力であったりと、第四図の私では出来ないことを無理にやっていた、それが正しい努力だと思い込んでいました。

イエス様のおっしゃった「私はこの世に所属していない」という言葉により、マインドフルネスやヴィパッサナー、第四図第五図、般若心経、そして八大人覚までスッキリと理解する出来ました。お釈迦様と道元禅師がどうしても後世に残し伝えたかったこと、イエス様が残された重要な言葉を、長い年月を経てこうして深く教えに触れて理解することが出来、感無量です。

今日も素晴らしいお話をありがとうございました

 

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