山下良道師法話まとめ

18/02/25 介護の現場が「聖なる場所」になるために

18/02/25 介護の現場が「聖なる場所」になるために

http://www.onedhamma.com/?p=6518

池埜先生、有光先生との大変貴重なお話を聞かせていただきました。

先生方のおっしゃるように、この話は、医療と福祉の現場にとって革命を起こすものであり、大きく変わるきっかけとなるお話です。このような素晴らしいお話が聴けて深く感動しています。
日本マインドフルネス学会の定義によると、マインドフルネスとは「今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」となっている。「評価せず、とらわれない」というのは仏教用語の「ウペッカ」にあたり、漢字では「捨」となり、日本語では「平静さ」となる。つまりマインドフルネスの肝は「ウペッカ」になる。

では、評価せずとらわれずに観ることができるのか?
世の中にはがんばれば出来ることも多いが、空を飛ぶことが無理なように、いくらがんばっても、原理的に無理なことがある。
ではマインドフルネスを、我々ははたして出来るのかどうか?
この答えはイエスでもありノーでもある。

ノーというのは、ある条件(第四図)のもとでやろうと思ったら無理で、イエスというのは全く違う次元(第五図)でやったならば出来るという意味である。

第四図のなかでは、私たちは、どこをどうがんばっても評価や好き嫌いから逃れることはできない。第四図の中の私の存在そのものが好き嫌いであり、評価であり、とらわれなのである。だから原理的にマインドフルにはなれない。
私たちは全く違う次元を同時に生きている。人間が二重構造になっているということ、これがマインドフルネスの肝であり、マインドフルネスの奇跡である。

マインドフルネスが医療介護の現場で単に働いている人の心を静めたり穏やかにするだけではなく、私たち人間の二重構造がわかり、ただ単に歳をとって死んでいく存在ではないということがわかる凄いものなのである。

(質問)第五図へのジャンプへ必要なことは?

(答え)
私たちは第四図であると同時に第五図の存在でもあると実感できるのがマインドフルネスである。マインドフルネスは第五図へのジャンプを要求している。まずは失敗して、とらわれなく好き嫌いなしに生きて行くことができない私をまず発見することが大事である。とらわれや好き嫌いによって苦しみを生んでいるのだから、それから解放されたらどれだけ幸せかということが分かる。
ワンダルマメソッドによって、体に戻って体の感覚を取り戻し、不幸な映画の中から出て、実は映画館の椅子に座っているだけということを思い出す。
長年、その映画をリアルだと思い込み、その映画に対して体で反応していたので、身体が歪んだり固まったりしている。その結び目をほぐしていく作業がヨーガのアーサナである。

(質問)
病気の重症の方のマインドフルネスは?

(答え)
生死の問題は小手先ではうまくいかない。私たちは実は第五図の存在なんだと実感するしかない。そこを実感できれば介護の現場が聖なる場所になる。第四図のなかの存在が崩壊している過程だからこそ、人間は第五図の存在だということが見えてくる。病気が重症の方に必要なのは世界観の転換である。

(問い)
福祉の人材を育てるとき「相手に寄り添いなさい、相手と共にありなさい、相手をジャッジしてはいけない、あるがままに受け止めなさい、そういう態度で示しましょう」と学生に教えていく。そのために訓練してスキルを高め、そういう人に国家資格が与えられる。しかし現場では、一生懸命あるがままに受け止めようとするが、うまくいかないのが現状。死に直面する人に対して辛くなり、燃え尽き、自分には向いていない、こんなしんどい仕事はしたくないと辞めていく。今は第五図という次元の違う存在に入る方法をほとんどの方が知らない。第五図を実感して医療福祉の現場が聖なる場所になる展望をお聞かせ下さい。

(答え)
我々は「寄り添わない」。ゴジラは映画の中の存在であり、実際には実在しない。「ゴジラは怖いよ」という人に「ゴジラは怖いよね」と言うことで、その人はゴジラが本当に存在していると信じてしまう。寄り添わないというのは突き放すのではない。「怖がる気持ちはわかる、でもゴジラは本当にいるのだろうか?体を感じてみよう。ゴジラはこの自分が座っている部屋にはいない。この映画館の椅子に戻ってこよう」という事を伝える。

われわれは映画の中で苦しんでいる。苦しみからの解放は映画から外に出ることであり、ゴジラがいない空間に戻ってくるということ。

本当に寄り添うのだったら、その悪夢からこの場所(第五図)に戻してあげる。第五図をわかった上で寄り添うのなら、また全然違う寄り添いになる。

(問い)死生観について。

(答え)
愛する人を亡くしたのではなく、あなたの亡くしたのはその人の肉体であって、愛した人は亡くなっていない。
愛する人をなくして打ちのめされた人を本当に救うのは、本当の存在は第五図だったと実感してもらうこと。表面的なグリーフケアではなく、本当のグリーフケアはあなたの愛する人は死んではいないと本気で伝えること。それには人間が二重構造だと実感していなければいけない。

(感想)
私自身も愛する人達を救いたかったけれど、あらゆる方法を試してもどうしても最後まで救うことが出来なかった、という深い絶望を経験してきました。傾聴し、共感的理解を示し、どんなに寄り添ったとしても、相手の問題がまったく解決されないという現象を目の当たりにしてきました。それは映画なんだと、そして私たちの本質は第五図である、という話が伝えられたらどんなに救いになっただろうと思います。

相手の映画の話を延々と聞くことで、ますます相手が映画をリアルだと信じ、映画の中に閉じ込めてしまう。相手を救おうとよかれと思ってしている事が、相手をますます映画の中に入り込ませてしまい、苦しめてしまう。

大切なのは援助者が二重構造を理解していること。第五図の視点から本当の寄り添いをしていき、苦しみや悲しみのない世界、映画の外へと出してあげること。

お話を聴いていて、大変感動したのは、池埜先生も有光先生も、山下先生の「寄り添わない」というお話を、反発することなく、聴いて下さっていた事です。

実際に医療介護の現場で死に向き合い、ご家族やご本人に真剣に寄り添い、なんとか苦しみから救いたいと思いながらも、それが出来ないという限界を感じていたからこそ、山下先生のお話が伝わったのだと思いました。

また、教授として福祉の人材を一生懸命育てながらも、その人達が燃え尽きてしまうという現実の中で、何かが足りない、根本的に何か違うのではないか、と感じていらっしゃったのだと感じました。

鼎談の締めくくりに「今日の話は革命であり、これまでの教育、臨床そのものの捉え方に地殻変動が起こる。凄い時代だと感動している」と教授がおっしゃっていました。まさに、このお話が日本の医療介護の現場を大きく変えていき、医療介護、福祉が聖なる仕事になっていく予感がします。第五図の慈悲、アガペーの医療福祉が実現していくのを感じて、本当にワクワクしています。

http://www.onedhamma.com/?p=6518

| 05:33 | comments(0) | - | pookmark |
18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

http://www.onedhamma.com/?p=6506

マインドフルネスの主流で言われるのはまず第一に「好き嫌いなし」「判断なし」に観察することの大切さ。

では、そもそも「好き嫌い」「判断」とはどういうことなのか?多くのマインドフルネス本の一番大切な箇所で書かれていながらも、その核心部分が曖昧にされ、きちんと説明されていないという現実。今回は、その核心部分を分かりやすく語って下さいました。

私たちが普段の生活でおこなっている「判断」は、そもそも悪いことなのだろうか。悪い判断、良い判断があるならば、「判断なしに」というのは、どういう判断をさすのだろうか。何も判断せず、好き嫌いがなければ、本屋に行ってもカフェに行っても選ぶことが出来ない。

第四図と第五図をきちんと区別する必要があるようだ。もし「第四図」しか存在していないとなると、どうしてもそのなかの「良いもの」と「悪いもの」は決定的な重要性をもってしまう。それが自分の幸不幸をすべて決めてしまう。

第四図の中で、悪いものために自分は不幸になってしまったと思い込むと、その後は、悪いものを批判して攻撃する。親のために、あの出来事のために・・・と。私は第一義的に「被害者」というアイデンティティをもつことになる。私を不幸にする原因が外にあって、私はその「被害者」。そして私を苦しめる「加害者」を批判し、攻撃し、謝罪を求める。一日中、加害者の事ばかりを考えている。たとえ50年前に起こった出来事だとしても。

ところが、私たちの本質は第五図であり、そもそも第四図は存在しない。不幸な映画は、すべて自分のこころが制作しているもの。自分で映画を作って、その映画の世界に閉じ込められる。映画とは思わず、現実だと一切疑わずに、思いこむ。

では映画を作り始める最初の第一歩は何か?
それが「好き嫌い」であり、「判断」なのである。マインドフルネスによって、好き嫌いや判断をどうして捨てるべきなのか、この説明がはっきりしていなかった。

その映画に閉じ込められて苦しんでいる人に対して、「そうだよね、つらいよね」と寄り添って、相手の苦しみを理解するのは、一見親切な良い行為のように思えるが、実は、ますますその人を映画の中に閉じ込めて地獄に突き落としてしまう。

その人を地獄から救い出すために、あらゆる手段を使ってあなた現実だと思ってるものは、映画なんだと知らせるしかない。

自分で作った不幸の映画の外に出ることが、唯一の救う方法なのである。

マインドフルネスは、今実際に苦しんでいる人に求められているが、本当はすべての人にこの薬を使う必然性がある。それはすべての人が映画にとらわれていて、映画に入っているとも気がついていないからである。

私自身、カウンセリングを勉強していく中で、延々と過去に起きた出来事に対して愚痴を言い続けたり、自分がいかに被害者かを訴える人に対して、ひたすら傾聴したところで、相手の問題が全く解決されない、もしくはまた何か問題を作り出して被害者を続けて行く、という例をいくつも見てきました。

そんな中で「共感」や「傾聴のカウンセリング」に限界を感じていました。本当にその人の問題を解決するのは、自分自身の作り出した映画の中で苦しんでいることを知ること。本当の私とは何か、を知ることなのだと今になり理解する事が出来ました。

映画の中で苦しんでいる人たち、そして映画にとらわれて、映画の中に入っているとさえ気がついていない人達が、本当のマインドフルネスを知り、映画の外から出て、苦しみから根本的に解放されることを願います。

http://www.onedhamma.com/?p=6506

| 05:29 | comments(0) | - | pookmark |
18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

http://www.onedhamma.com/?p=6494

ここに本文を記入してください。

真理とは普遍的であるべきで、1+1=2である、というのと同じように、どこの国の人でも、

どんな年齢の人でも通用するのが真理である。

 

ある伝統では「神」を使い、ある伝統では「神」を使わない。この2つがあって普遍的な真理にたどり着くことが出来る。

デリケートな真理なので、あらゆる表現が存在しているのである。

「判断なしに観察するのがヴィパッサナーである」と言われている。


世の中には努力すると出来ることがある。例えば英会話なら努力すれば出来るようになるが、

ヴィパッサナーは努力すれば判断なしに観察することが出来るようになるだろうか?それは絶対に出来ない。
何故ならシンキングマインド=判断だから、原理的に無理なのである。

判断することで苦しみを生んできたのだから、判断しないことを選ぶように言われてきたことが大混乱の元であった。

これは一重構造の中で、たった一つの心があって、その心が判断してきたから、これからは判断しないように生きよう、

ということであり、これをすることは非常に辛いことである。


一重構造である限り、反応しないことを数量的に減らしていく、反応しないところを目指していくしかない。

「判断なしに観察しなさい」と表現したことが「私が努力すれば判断なしに観察できるようになる」と誤解された。
「キリストの復活」も「ただ坐りなさい」という表現も二重構造を表現しているのである。


では「判断なしに観察しなさい」は何を目的とした表現か?
それは「もう一人の私を判断なしに観察する私。先発ピッチャーはシンキングマインドであり判断そのものであるから、

リリーフピッチャーの私を生きなさい」ということ。

 

「気づきなさい」というが、一番大事なのはどかから気づくか。
第五図にいさえすれば自然と出来ることを、第四図の中で無理して気づいている。

私たちは第四図以上の存在であり、第五図の存在である。第五図の存在は判断なしに好き嫌いなしに観察する。

映画館の映画の椅子に座って(第五図から)映画(第四図)を観ている。映画の世界(第四図)には存在していないから、

第五図から客観的に好き嫌いなしに観ることが出来る。

 

この「映画の世界(第四図)には存在していない」のという智慧とともに、この映画すべてのものに深い愛を感じる。

それをキリストでは「アガペー」、仏教では「慈悲」と呼ぶ。「実は私は映画の外(第五図)にいる」という智慧と、

アガペーを持って映画の世界を生きていく。映画の世界で0になることを目指す必要はないのである。

 

柳田神父様との対談の中で話題になった落とし穴として「第五図がわかった偉い俺」という心が出てくることについて。

第五図の中にプライドが入ってくることはあり得ない事であり、それはただ頭でわかったに過ぎない。

「慈悲の瞑想が必要でない、慈悲がわからない」というのも第五図を経験したことがないからそのような発言になる。

第五図を経験したら慈悲の瞑想が重要だと分かる。

 

※※※※

 

第五図を経験して、それから瞑想していなかったらエゴの誘惑、プライドの誘惑に負けてしまう。

楽しんでやり続けていけばそのような誘惑に惑わされることはない。

柳田神父さまと山下先生の宗派を超えて真理を追究されていく姿勢に本当に深く感銘を受けました。

複雑なものをわかりやすく、混乱を鎮め、分裂を統合し、真理を明らかにしていく山下先生の法話にいつも深い愛、

慈悲を感じています。
これからも歩みを止めることなく、楽しんで瞑想をやり続けて行きたいと思います。

 

http://www.onedhamma.com/?p=6494

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18/01/28 サルナート初転法輪如来像が象徴する「ワンダルマ」

18/01/28 サルナート初転法輪如来像が象徴する「ワンダルマ」

http://www.onedhamma.com/?p=6481

宗教教団に所属する事は、教団独自の教義を受け入れることであり、その教義は他では通用しない。教団の中でしか、意味を持たないから。それは最初から、普遍的真理ではないと、宣言してしまっていることになる。現代の人間は、全世界に通用する真理でないかぎり、怪しいと感じてしまう。

しかし、教団ごとに違う教義を、バハイの見方をして、「何かが生まれているプロセスで、お互いを補い合うものだ」とするならばひとつの真理が生まれる。

ウ・ジョーティカ長老は、涅槃と観察についてこう語る。

「涅槃の状態に入った時、あなたはそれをもはや観察していない。観察が可能であるためには、あなたはその外側にいなければなりませんから。だから瞑想者がこの涅槃の状態にある時には、その人はもう涅槃を観察してはいないのです。それを観察することはできません」

良いモノに対しての強い執着。悪いモノに対して怒りが苦しみを生んでいる。だから、その執着や怒りという反応をしないように修行して、最後に完全に反応しなくなるところが絶対の平安になる。苦しみが完全に終わった絶対平安の世界が涅槃=ニッバーナ=ニルバーナである。

その状態に入る直前に、この状態に入ったらすべての苦しみから解放されることはわかる。でも、状態に入ってしまったら、もうそれを「観察」することは出来ない。眠りに入る前に「ああ、今から眠りに入るな」と分かり、眠りから覚めた後に「今まで眠っていたな」と分かるが、夢を見ないほどぐっすり寝ている時は、「今、自分は寝ているな」とは気づけないのと同じ。

これは人間を一重構造と捉えているかぎり、確かに観察することはできない。人間が一重構造だったら、観察する主体が止まっているのだから、論理的に考えても完璧にそうなる。

しかし「涅槃を観察することが出来る!」と、宣言された長老がいらっしゃった。パオセヤドーである。それは何を意味するのか?

我々が「涅槃の外側にいる」ということ。それは先発ピッチャーではなく、リリーフピッチャーとしての私。

二つの相容れない主張を、バハイ的にひとつのプロセスの展開として捉えていくと、人間は二重構造になっていると分かる。これは世界の普遍的な真理である。
呼吸も涅槃も、モンキーマインドの先発ピッチャーでは観ることができない。

まず最初に、涅槃が観察できない、ということをはっきり言ってもらうことで、涅槃が観察できる、ということの意味が、とんでもなく革命的であることがはっきりしたのだ。お互いに違っているものを、聖なるものの展開のプロセスとして観ていたならば、お互いに間違いではなく、すべて必要なものであることがわかる。

主張が違うからといって、お互いを敵とみなし、自分の教団の教義が一番だと主張したり、相手を見下したりすることは、大事な本質を見逃してしまうのだと分かります。違いはプロセスの展開の過程であり、お互いを補い合うものとみたならば、争うことなく、普遍的な真理に到達することができる。

涅槃を外側から観察していところに、本当の私が存在する。これは想像でも、概念でもなく端的な事実であり、実践のなかで、体験的に知ることができる。あらゆるものがスッキリとシンプルに整理されていきます。

http://www.onedhamma.com/?p=6481

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18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

http://www.onedhamma.com/?p=6471

私たちは誰もが「第四図の中の一人」にしか過ぎない。

だけど同時に「第五図の私」としてもこの世界の外に存在している。

第六図はその二重構造である自分をどうやって生きるかという話である。これは端的な事実である。

 

「1+1=2」というのは、世界中のどんな人にとっても、共通の事実であるように、

私とは何か、生きることと死ぬこと、そういうものこそ、1+1=2と全く同じレベルで扱い、

すべての人にあてはまらないといけない。一部の人、ある集団に所属する人にしかあてはまらないのならば、

それは真理とは言えないのである。

 

私が二重構造であることは、すべての人にあてはまる真理である。
しかし、このようなケースが存在している。
‘鷭店渋い箸い考え方そのものがない
二重構造を聞いていても実感できない。

,蓮∋実としてはそうなのだけれども、その人は、その事実を知らないために間違った生き方をしてしまう。

知らないばかりに無駄な生き方をして、事実に反するから苦しむのである。

しかし二重構造であることを分かった途端に、人生のすべてが変わってしまう。

生老病死の問題が解決されるのではなく、そもそも存在していないのだと分かる。

△脇鷭店渋い魍鞠阿箸靴討話里辰討い討癲△修譴鮗卒兇任ないから不安になる。

この二重構造をどう実感するかの鍵を握るのがマインドフルネス。

マインドフルネスは第四図から第五図への転換であり、二重構造そのものである。

マインドフルネスは第五図でしか成り立たない。

 

二重構造という教えがある伝統とない伝統がある。
あったとしても表現の仕方が違い複雑になっている。

例えば、「キリストの復活」や、「阿弥陀様に救われている私」、などとという表現で、二重構造が表現される。

それぞれの教団によってどう表現するかが違っているだけで、すべての人にとっての事実だと分かれば、

他の教団への偏見がなくなる。どっちが正しいか、という話をしていては事実を見落としてしまうのである。

 

テーダワーダは教えが一重構造であり、「主体が客体を観察している」しかないので、ある意味スッキリしている。

良いモノに対する執着、悪いモノに対する怒りというような、反応しなけれ苦しみを生まないから、

反応しないようにトレーニングしていく。心と体の反応がゼロの状態を最終目的地とするのである。

 

二重構造の大乗仏教のかたの一部は、マインドフルネスを疑っているひとがいるが、

それは、一重構造を疑っているのである。世間の一般的なマインドフルネスが一重構造になっているから、

その疑いは仕方ない面もある。

マインドフルネスと二重構造をつなげることにより、マインドフルネスが唯一の鍵である二重構造を理解できる。

‘鷭店渋い龍気┐あるが、それを実感する技法がない大乗仏教。
一重構造の教えで、マインドフルの技法があるテーダワーダ。

このどちらも救うことができるのである。

マインドフルネスを初めて実践して、今までに感じたことのないような安らぎを感じたりするビギナーズラックは確かに起こるが、この二重構造が分からない限り、次からはうまくいかなくなってしまうのである。

 

※※※※

山下先生があらゆる伝統を偏りのない目で見て、お互いを繋げることにより本質が明らかになり、

これはまさに正しく物事を見る「正見」そのものだと感じました。
一つの事実を、それぞれの伝統が、それぞれの表現の仕方で伝えているだけであり、

その表現方法の違うからといって争い合うという事がいかに無駄な争いかが分かります。

二重構造の世界観とワンダルマ・メソッドによって、教えだけではなく二重構造を実際に体感する事が出来、

人生を根底から変えることが出来ます。

 

二重構造とマインドフルネスを繋げることにより、伝統の宗教とマインドフルネスの混乱をスッキリと整理してくださいました。

二重構造が分からない、もしくは一重構造しか知らない、その混乱の中で苦しむ人たちの希望の光になると思います。

http://www.onedhamma.com/?p=6471

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18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

http://www.onedhamma.com/?p=6471

 

宗教の伝統とマインドフルネス、一重構造と二重構造との関係を大変わかりやすく整理して下さいました。

 

私たちは誰もが「第四図の中の一人」にしか過ぎない。だけど同時に「第五図の私」としてもこの世界の外に存在している。第六図はその二重構造である自分をどうやって生きるかという話である。これは端的な事実である。

「1+1=2」というのは、世界中のどんな人にとっても、共通の事実であるように、私とは何か、生きることと死ぬこと、そういうものこそ、1+1=2と全く同じレベルで扱い、すべての人にあてはまらないといけない。一部の人、ある集団に所属する人にしかあてはまらないのならば、それは真理とは言えないのである。

私が二重構造であることは、すべての人にあてはまる真理である。


しかし、このようなケースが存在している。
‘鷭店渋い箸い考え方そのものがない
二重構造を聞いていても実感できない。

,蓮∋実としてはそうなのだけれども、その人は、その事実を知らないために間違った生き方をしてしまう。知らないばかりに無駄な生き方をして、事実に反するから苦しむのである。しかし二重構造であることを分かった途端に、人生のすべてが変わってしまう。生老病死の問題が解決されるのではなく、そもそも存在していないのだと分かる。

△脇鷭店渋い魍鞠阿箸靴討話里辰討い討癲△修譴鮗卒兇任ないから不安になる。この二重構造をどう実感するかの鍵を握るのがマインドフルネス。

 

マインドフルネスは第四図から第五図への転換であり、二重構造そのものである。マインドフルネスは第五図でしか成り立たない。

二重構造という教えがある伝統とない伝統がある。
あったとしても表現の仕方が違い複雑になっている。例えば、「キリストの復活」や、「阿弥陀様に救われている私」、などとという表現で、二重構造が表現される。それぞれの教団によってどう表現するかが違っているだけで、すべての人にとっての事実だと分かれば、他の教団への偏見がなくなる。どっちが正しいか、という話をしていては事実を見落としてしまうのである。

テーダワーダは教えが一重構造であり、「主体が客体を観察している」しかないので、ある意味スッキリしている。良いモノに対する執着、悪いモノに対する怒りというような、反応しなけれ苦しみを生まないから、反応しないようにトレーニングしていく。心と体の反応がゼロの状態を最終目的地とするのである。

 

二重構造の大乗仏教のかたの一部は、マインドフルネスを疑っているひとがいるが、それは、一重構造を疑っているのである。世間の一般的なマインドフルネスが一重構造になっているから、その疑いは仕方ない面もある。

マインドフルネスと二重構造をつなげることにより、マインドフルネスが唯一の鍵である二重構造を理解できる。

‘鷭店渋い龍気┐あるが、それを実感する技法がない大乗仏教。
一重構造の教えで、マインドフルの技法があるテーダワーダ。

このどちらも救うことができるのである。

 

マインドフルネスを初めて実践して、今までに感じたことのないような安らぎを感じたりするビギナーズラックは確かに起こるが、この二重構造が分からない限り、次からはうまくいかなくなってしまうのである。

山下先生があらゆる伝統を偏りのない目で見て、お互いを繋げることにより本質が明らかになり、これはまさに正しく物事を見る「正見」そのものだと感じました。


一つの事実を、それぞれの伝統が、それぞれの表現の仕方で伝えているだけであり、その表現方法の違うからといって争い合うという事がいかに無駄な争いかが分かります。

二重構造の世界観とワンダルマ・メソッドによって、教えだけではなく二重構造を実際に体感する事が出来、人生を根底から変えることが出来ます。

 

二重構造とマインドフルネスを繋げることにより、伝統の宗教とマインドフルネスの混乱をスッキリと整理してくださいました。二重構造が分からない、もしくは一重構造しか知らない、その混乱の中で苦しむ人たちの希望の光になると思います。

素晴らしい法話をお聞かせ下さりありがとうございました

 

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| 14:31 | comments(0) | - | pookmark |
18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

http://www.onedhamma.com/?p=6464

第四図と第五図は知的インフォメーションでもコンセプトでもない。
そういう考え方もあるよね、というものではなく、これで人生が救われる、このことをわかるために生まれてきたというほど重要なものと思えるか?
それは第四図にどれだけ絶望していたかによる。

子供時代の夢から覚めた14歳で世界に強烈な違和感を抱いたか?
第四図の世界が苦しみの世界そのもので、何かがおかしい、認識がおかしい、第四図の世界しかないと思わされているのは嘘ではないか。このあたりを直感できるかどうか。第四図しかないところで幸せを求めるのは最初から負け戦。
もちろんある程度は勝つことができるが、どんなに勝っていても最終的に負け戦になるのである。

大人たちが教えてきた世界のあり方に違和感を感じるのは、実は最初から第五図をわかっているからであり、それなのに、間違った第四図の世界観を押しつけられたために、抵抗することになる。でも、あまりにも世間が「第四図」一色で染まっているので、自分の直感の正しさに確信がもてずに苦しむ。

「第五図を真実とする」ということにおいて、仏教もヨーガもキリスト教も共通である。ヨーガも第五図を自覚するためのひとつのシステムであり、第五図でなかったら瞑想もヨーガも、仏教もキリスト教も成り立たない。第四図のままでは経典は矛盾ばかりで読みとくことができない。第五図がわかったら経典が、何の矛盾もなく読みとけて納得が行く。

仏教の僧侶やヨーガの指導者でも第四図しかない、という価値観の人が多く存在する。第四図しかないという人で構成された組織しかないのだったら、無所属でいる方がいい。間違ったところに所属するくらいなら、しないほうがいい。無所属をつらぬいた人たちが本当に所属できる場所は第五図なのである。

自分自身幼い頃から、大人たちの押しつけてくるものが受け入れられず抵抗し続けて来ました。第四図しかないという組織の中で苦しみ、激しく否定される事で、自分にとって何が大切なのかが分かりました。真理を探究することを押さえ込んでまで他の価値観を受け入れることができない。私自身もそのような体験をしました。

そのような狭間で苦しむ人、どこかにしまい込んだはずの「14歳の違和感」が時折り顔を出し、何かがおかしいと感じながら生きている人は多いのではないでしょうか。そのような人たちが第五図を思いだし、第五図が本当に所属できる場所だと分かったら素晴らしいことだと思います。

http://www.onedhamma.com/?p=6464

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17/12/24 映画という闇、リアルという光

17/12/24 映画という闇、リアルという光

http://www.onedhamma.com/?p=6446

 

今回の法話で、新刊『光の中のマインドフルネス』で伝えたかった部分、光の本質がさらにはっきりしました。

 

瞑想中に見える光。これについて瞑想会などで質問しても明確な答えは返ってこず、「気にするな」とい処理される。なぜ「気にするな」と言うかというと、その人自身が分からないからであり、単に無知であるという問題である。

 

パオメソッドの中の光は重要な要素ではあるが、光を説明してはいない。光が見えたら、それを手がかりにジャーナに入りなさいという実践的なガイドがあるが、まだ光の本質を捉えていない。光が見えるというのは、瞑想が深まったひとつの目安ではあるが、その光自体の説明はない。内山興正老師とパオ・セヤドーの二人の教えを山下先生の中で消化したのがこの本の柱となっている。内山老師の第四図・第五図の世界観がなければ光の本質を理解できない。

 

つまり、2つの次元があるということ。

ひとつの次元(第四図)から、もうひとつの次元(第五図)に移った目安になるのが「光」である。この2つの次元を前提としていなかったら光の意味が分からない。

次元が違う時、その違いをあらゆるところで経験することで、第五図に移ったことがわかる。逆に言うならば、第四図・第五図がなかったら、違いの意味が分からない。ここが新刊「光の中のマインドフルネス」の急所である。

 

第四図の中には光はないが、第五図には光がある

第四図の中には慈悲はないが、第五図には慈悲がある。

第四図の中には智慧がないが、第五図には智慧がある。

マインドフルネスは第四図の中にはく、第5図にしかない。

 

今まで、「光」「慈悲」「マインドフルネス」「智慧」などが、もやっとしていてピンと来なかったのは、この2つの違う次元という差がはっきりしなかったからであり、この第四図・第五図の2つの次元があるとなったとき、論理的にも実践的につじつまが合うのである。

 

今自分が第四図にいるか第五図にいるか分からない、映画なのかリアルなのか分からない、ということも多いが、はっきり区別する事ができる。それは「ネガティブなものを持っているかどうか」である。ネガティブなものを持っていれば、その人は映画の中である。映画ならフィクションなので、どれだけでも作ることができ、限りなく嘘で、しかもネガティブである。映画の中の「憎しみの対象であるAさん」は、リアルに存在するAさんとは一切なんの関係もなく、架空の存在。つまり、自分が頭のなかで作りあげた架空の人と、必死になって戦っているのである。

 

映画の中に首を突っ込んでいる限り、それはリアルだと感じているが、私たちは映画から出ることができる。映画館いる時、座っているイスと、自分の体に気づくことによって、全部映画だったと気づき、一瞬で映画から出る事が出来る。

スクリーンの中を支配しているのがネガティブなエネルギーで、イスの世界を支配しているのが慈悲。映画の中は闇で、リアルな映画館は光。映画館の光を消さないと映画は観ることが出来ないのである。

そして映画を出たとき、そこにはリアルな世界であり、ものすごく豊かな世界がある。そこには光があり、慈悲があり、マインドフルネスがある。

 

映画をリアルだと思って反応してしまい、その時の憎しみや心配などの反応が体に蓄積される。映画をリアルだと思い込んでいる限り、反応しないようにする事は出来ない。映画がリアルではないと分かれば、反応する必要がないと分かり、闇から解放されるのである。

 

瞑想の中で、この世界の本質は光だと知ることができる。そして瞑想から覚めて普通の生活に戻っても光の状態は続き光を失うことはない。24時間光の中なのである。

今まで自分を苦しめていたのは、自分が作り上げた映画だったんだ、と完全に腑に落ちたときの解放感は忘れられません。映画に巻き込まれ、映画を完全にリアルだと思い込んでいたという人生最大の勘違いに気がつき、不幸な自分を手放した時、そこは光の世界が広がっていました。

 

映画がリアルではないのだがら、ネガティブなものと、もはや戦う必要もない。スクリーンの中の映画よりも映画館の方がよっぽど美しく豊かだという事を知りました。

 

誰かを憎むことで成り立つような、自分や他人を責めて生きるような、そんな苦しい人生には2度と戻りたくありません。最大の勘違いに気づかせてくださった山下先生に、心から感謝しています。

 

http://www.onedhamma.com/?p=6446

 

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17/12/17 たとえダークサイドに堕ちても、敗者復活戦があるから

17/12/17 たとえダークサイドに堕ちても、敗者復活戦があるから

 

http://www.onedhamma.com/?p=6442

 

今回は、なぜ第四図の映画に巻き込まれてしまうのか、たとえダークサイドに落ちたとしても敗者復活戦があるという希望に満ちたお話をしてくださいました。インドでリトリートのお話も聞かせていただくことが出来ました。

 

インドの旅行中に出会った「バハイ」という宗教は「神聖なるものが、この世に現れるプロセスの最中に一時的に形をとったものが、現在のそれぞれの宗教であるから、違っていて当たり前」と主張している。たくさんある宗教のうち、どの宗教が正しいかと争い合う意味がない。それぞれの違いは互いを補完しあうものである。

 

これを仏教に当てはめれば、ブッダの教えがどう道元禅師に流れているかだけであり、ブッダから道元禅師のひとつのプロセスの発展と捉えれば何の矛盾もなくさらに深く理解出来る。「道元禅」なるものが、他と離れて独立したものと捉えるよりは。

 

インドでは「第四図・第五図」という表現ではなく、「表面的な次元と深い次元」または「二重構造」という伝え方をしたが、インドではこれがすんなりと通じる。同じ次元の中で浅いとか深いとかいう話ではなく、第五図は違う次元にいるということも理解してもらえた。やはり現在のインドには、ダライラマ法王を初めとする仏教の最高レベルの先生たちがいて、普段からその話を聞いている。そのうえ、インド人の血が、次元が違うというところを直感的に理解出来る。インドの人たちは二重構造に対して宗教的な勘、感覚的な勘が非常に鋭い。

 

「光」の反対は「闇」である。しかし人は最初から闇にいるわけではない。ジェラシーや疑いなどから躓いていって闇に落ちて行ってしまう。

 

第四図は映画の世界、つまりフィクションの世界だから、どのようにでも作ることが出来る。例えばゴジラのような、実際に存在しない生き物まで映画の中でなら作ることが出来るのである。映画の中ではゴジラは非常にリアルだけれども、実際は、映画そのものはフィクションである。

 

なぜダークサイドに落ちてしまうのか?その映画がものすごく魅力的だからである。シンキングマインドはネガティブでダークなエネルギーを持っている存在であり、ダークなエネルギーでダークな映画を作ってその中にズブズブに入っていってしまうのである。でも一回落ちたら終りではなく、敗者復活戦があるのである。

 

闇の世界に入って、その人の映画の中には、Aさんという実際にいる人物が登場するが、そのAさんはその人が勝手にフィクションとして作ったAさんであり、実在の人物とは縁もゆかりもないということである。

 

ゴジラが大暴れする映画で、実際に映画に入ってしまったらゴジラに対する不安や恐怖や恨みが沸き起こる。それを続けていくとダークサイドに落ちてしまい「自分の人生がゴジラにめちゃくちゃにされた」となる。

 

実際私たちの人生でも「親のために、パートナーのために人生をめちゃくちゃにされた」という人は多い。しかしその人の映画の中での「親やパートナー」と、実際の実存する「親やパートナー」は全く違うのである。

 

ではゴジラとどう戦えばいいのか?ゴジラは映画であってもともと存在しなかったと知ること。そしてゴジラに対する恨みは自分が作り上げたものであり、恨みや不安の対象であったゴジラはいないと知り、憎しみを手放す。しかし、体にはそのネガティブなエネルギーがコリや痛みとして残っている。憎しみ続けた結果が体に残っているから、あとは身体のケアをしていく。

 

この世界が一重構造で、この第四図の苦しみに満ちた世界しかない、となると世界が存在している限り逃れられないのだからゼロになればいい、自分や世界の存在を終わらせようという発想になる。この考え方が、どこが決定的に違うかというと二重構造という点。私たちは二重構造になっていて、第四図の世界の外に存在するということによって、怒りや貪りを乗り越えていけるのである。

第四図をリアルだと思っていたことを終わらせ、第五図の本質を分かったうえで、第六図として生きる。世界がもう一度違う意味のものとして我々の前に現れる。それを生きるのが「菩薩」である。

 

光は第四図の中には存在しない。第四図を抜けるには第五図が本質だと気づけばいい。そこにあるのは光だけ。第五図にしか光のマインドフルネスは存在しない。

 

 

法話を拝聴し、今までどれだけの不幸な映画を作り、自分自身を苦しめてきたかという事が思い出されます。そして私の映画の中に出演していた人物は、実際の人物と名前は同じだとしても全く違う人物として自分自身が勝手に作り上げ苦しんでいたのだとはっきりと分かります。

 

自分を苦しめていたのは、他人ではなく他でもない自分自身だったというこのトリックに気がついた時、ハッと目が覚めて、今まで夢を見ていた、映画の世界を生きていたのだと分かりました。

 

恨むことも怒りも不安も実は映画をリアルだと思っているから起こる、そして怒りや不安の結果として、体の痛みが残る、病はネガティブな気から起こる、本当にその通りだと思いました。まずは自分の本質を知り映画を抜けて、そして身体に残っている痛みのケアをしていくというプロセスは大切だと感じました。

 

「光の中のマインドフルネス」を読んで第四図の映画から抜けて苦しみから救われる方がたくさん増えますように。たとえ第四図に引き戻されたとしても諦めず、光の存在を信じて敗者復活して下さることを願っています。

 

 

http://www.onedhamma.com/?p=6442

 

| 13:43 | comments(0) | - | pookmark |
17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6408

 

 

名古屋マインドフルリトリートに参加させていただきました。素晴らしい崇覚寺本堂で、「お浄土の光の中のマインドフルネス」について話してくださいました。

 

今までのマインドフルネスは「心を強くするマインドフルネス」であり、お浄土とマインドフルネスが結びつくことはあり得なかった。

健康で働き盛りの人たち、現役バリバリの世代のため、心が強いリーダーのためのマインドフルネスが現状である。しかし、人間の働き盛りはすぐ終わり、退職してやがては病気になり死んでしまう存在。

 

「お浄土の光の中のマインドフルネス」は生死の問題の解決がつく。第五図が自分の本質だと分かれば、生老病死はもともと存在しない、生死の問題そのものが存在しないと分かる。

 

瞑想の素晴らしい指導者から、身体の感覚や心などに「気づきなさい」と言われ、それを実際にひとりでやってみても上手くいかず、何年たっても人生に変化が起こらない。先生たちも生徒たちが気づけない理由がピンと来ず、「気づきなさい」と言うだけで、なぜ気づけないかという本当の理由が指摘されないできた。

 

素晴らしい瞑想の指導者が100%の慈悲と善意で教えてくれるマインドフルネスが、何故うまくいかないのか?それは、先生と生徒の住んでいる世界がそもそも違うから。その瞑想の指導者は第五図を既に生きていて、生徒である我々は第四図を生きているから。

第四図はモンキーマインドの世界だから0.1秒も対象にとどまれない。第四図の人間が何かに気づいているということは出来ない。

 

だからこそ第四図から第五図にどう転換するかという戦略を立てないといけない。まずは微細な感覚を感じることにより、シンキングマインドが落ちて映画のプロジェクターが止まり、映画の世界が消えていき第五図へ入っていく。体の微細な感覚を感じる事で第五図の入口に立ち、慈悲の瞑想をすることによって決定的に入って行ける。

 

「私が幸せでありますように」と言った時に、ピッチャー交代が起こり、私の外へ立っている。

第四図の私が第四図で気づこうとして失敗している。五図の中にいるという事が大事であり、まず第五図へ行くこと。この説明が決定的に欠落している。この第五図への転換なしには何も始まらない。第四図と第五図は次元の違う場所であり、第五図は慈悲が材料である。

 

慈悲がないとこの転換が起こらない。第五図がお浄土であり神の国。第四図の私が全てではない、第五図が私の本質だと分かれば、生死の問題自体が無くなり、問題として意味をなさなくなる。マインドフルネスはお浄土の光の中にしかないのである。

 

★★★★★

 

マインドフル・リトリートに参加させていただき、実際に「お浄土の光の中のマインドフルネス」、あふれる慈悲を感じながら瞑想させていただきました。崇覚寺さんの素晴らしい場のエネルギーとサンガの力によって、本当に素晴らしい時間を過ごす事が出来ました。心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

 

| 23:20 | comments(0) | - | pookmark |
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