山下良道師法話まとめ

17/08/20 「瞑想体験」に逃げ込まない、憧れない、執着しない

17/08/20 「瞑想体験」に逃げ込まない、憧れない、執着しない

http://www.onedhamma.com/?p=6151

 

第四図と第五図の次元の違いが決定的であり、これは第四図で瞑想の段階を一段一段上がっていくことよりも圧倒的にすごいことである。

四聖諦も第四図と第五図ですべて説明がついてしまう。

人生は苦である(苦)→それには原因がある(集)→原因を滅することができたら苦しみから解放される(滅)。

 

なぜ苦しいのかと言えば、第四図で生きている限り苦しいのである。苦しみの原因は、「第四図しかない」と思い込んでいること。「第四図しかない」という幻想が消えたときに、第五図が私の本質だと分かり、苦しみが解決される。

 

第四図を生きてきた私がどうやって第五図を認識できるのか、その方法が八正道である。八正道は七番目の正念(サンマー・サティ)から生まれている。正しいマインドフルネスを求めていくことで第四図から第五図へ転換することができる。

 

瞑想やスピリチュアルなどの業界の中で、世界との関係がギクシャクしていて、世界への愛がないという業界の嫌な部分がある。

この世界が嫌で逃げていることを出家や解脱や解放などという表面的にはきれいな言葉で、言ってしまうのは根本的に何かがおかしいことである。この嫌な世界から瞑想の深い禅定に逃げたい、でも皮肉なことに、そういう人はジャーナに行くことが出来ない。深い瞑想体験をしていける人は「世界への愛」がある人である、というのが実際に山下先生がミャンマーの修業中に目にしたリアルな現実。

 

 

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第五図を本当に理解した時に苦しみに終止符を打つことができる。その時に世界はまるで違ったものに見える。

もちろん、これから瞑想が深まるにつれ、いろいろな体験をしていくことになると思いますが、その瞑想段階を競ったり争ったりすることは第四図の世界でしかありえない事ですね。第五図・第六図の世界では比較や優越に苦しむこともないですから。まずは第五図の世界観にしっかりと転換していくことが何よりも大切なことだと法話を拝聴してよく分かりました。

そして、みなさまの体験から、瞑想の細かい部分をしっかりと正確に実践することがとても重要なことだとよく分かりました。ワンダルマ・メソッドの土台である「微細な感覚」と「慈悲」をどれだけ丁寧にやるかが大切ですね。ワンダルマ・メソッドは本当に完成されています。これからも教えていただいたとおり細かい部分も丁寧に実践していきます。そして、来年からの瞑想のご指導もとてもワクワクしています

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17/08/11 「ジャーナ」と「第五図」が、サティを混迷から救う

17/08/11 「ジャーナ」と「第五図」が、サティを混迷から救う

http://www.onedhamma.com/?p=6135

 

法話拝聴させていただきました。
お釈迦様以来、混乱している「サティ」について、ジャーナ(禅定)と第五図との関係をしっかりと整理して、

大変わかりやすく解説して下さいました。

 

お釈迦様は「四聖諦」の最初の「苦諦」で、この世界は苦しみの世界だから、苦しむのは当たり前とおっしゃった。

これは苦しむ人々にとって救いの言葉である。「苦集滅道」は普遍的な真理であり、私たちは生まれながらにして根本的に間違いがあって苦しんでいる。そしてその苦しみを取り除く方法である「八正道」を説かれた。

 

しかし、最初の「正見」を「正しいものの見方」と解説されても、何が正しいのか分からない。七番目の「正念」を「正しく思い出す」と言われても、では何を思い出せばいいのか?肝心なものが分からずぼやっとしてしまう。この混乱はすべて、「サティ=念」の大事な部分を受け取り損なって来た結果である。

 

永井さんがツイッターで取り上げていましたが、「煩悩の流れを止めるのはなにか」という学生アジタからの問いに対するお釈迦さまの答えを、中村元さんは「気をつけること」と訳している。もちろんその原語は「サティ」

どうやったらサムサーラを止められるのか?というとっても大事な問いなのだから、その答えは最重要なはずなのに、「気をつけなさい」では、何のことか分からなくなる。これがテーダワーダの文化であれば「気をつけなさい」は「マインドフルであることに気をつけなさい」と読み取ることが出来るが、日本にはその伝統はないので文字通りただ「気をつけなさい」でしかなく、何に気をつけたら良いのか分からない。しかし、ここ20年でテーダワーダの長老たちが日本に来てくれたおかげで「サティ」の意味がはっきりして、八正道の「正念」が「正しいサティ=正しいマインドフルネス」であると伝えてくれた。

 

「清浄道論」に詳しく書かれているように、テーダワーダの正統なやり方では、いきなりサティから始めることはない。

「戒・定・慧」というように、戒律を守り、禅定に入り、智慧を深めていくという流れである。サマタ瞑想をして禅定に入り、その後ヴィパッサナーを始める。これは清浄道論の骨格そのもの。まず禅定に入り、そこからヴィパッサナーの智慧の段階を上がっていくのがパオメソッドでありテーダワーダ。

 

マインドフルネスで集中力が高まるとかハッピーになるというという話ではなく、もっとダイナミックなもの。まずはジャーナに入って、智慧を深めて、ニッバーナに行く。

サティが混乱したのは「禅定を経ることなしにサティをしなさい」と言われたから。

正統な流れは、禅定に入ってからヴィパッサナーをする。いきなりサティをして怒りに気づくことは出来ても消すことは出来ず、サンカーラが浄化されることはない。それは集中力が足りないとかそういう問題ではなく、第五図の世界観がなかったから。ジャーナに入るのは第五図に入ること。違う次元、部屋に入るということで、集中が深まったという話とは別である。

 

第四図から、第五図へ抜けているのは、シンキングが止まっているということ。映写機が止まり、第四図の映画が止まり、第五図へと入っていく。そこは喜びに満ちた世界。そのあとヴィパッサナー(観察)が始まる。このことからもヴィパッサナーは「第五図からの観察」となる。あるがままに、好き嫌いなしに、反応しないで見るという、普通ヴィパッサナーで言われているすべては第五図からしか成り立たない。ジャーナ(第五図)に入ったあと第五図からこの世界を眺め本当のあり方を知っていく。

第五図から徹底的に観察していくと、ついに世界が消えて、第五図の純粋な意識になる(ニッバーナ)。

 

まとめると、サティは「第五図から気づいていること」となり、「不忘念」は「第五図から見ることを忘れるな」となり、「正念」は「第五図からの視線で正しく見ていなさい」となる。

 

テーダワーダの「ジャーナ」と大乗仏教の内山老師の「第五図」が出会って「サティ」の混乱がおさまる。サティが実践的に伝わってきても、第四図、第五図の世界観がないとサティはどういうものか説明ができなかった。

 

「非思量」とは曹洞宗にとっては最も聖なる言葉であり、非思量に坐禅者としての人生を捧げるような非常に重たいもの。

箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何思量せん。非思量。

 

坐禅のとき「思いの届かないところになんとか行きなさい」と言われるが、それが第五図であり非思量。

第四図にはシンキング(思量)か、何も考えない(不思量)しかない。「非思量」は全く違った意識のあり方であり、これが「サティ」であり「第五図からの視線」。

 

内山老師自身も筋金入の患者であり、苦しみを頭の中で解決しようとして、苦しんできた人である。その内山老師の「思い以上の自己」という言葉。思いとは全く関係のないところで全ては整っているという直感。それは、思いの世界で行き詰まったからこそ分かる。

 

心はそんなに簡単には変わらない。心の働きで、「これはいいから育てよう、この働きはダメ」というようには出来ない。思いによって苦しむのだから、これをどうにかしようと、自分の手で心を直接動かそうとすると、心が壊れてしまう。
その思いの届かないところで完全な自己(第五図)をどうしようもないみじめな私(第四図)が直感する。

 

 

 

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内山老師自身も苦しんだというお話を拝聴し、とても深く共感できました。このどうしようもない私ではない、「思い以上の自己」が存在するということ、そして第四図・第五図・第六図を残してくださいました。こうして今、山下先生と永井先生によって再発見され、もう一度解説が聞けるとは、なんて幸せなことでしょう。

『サティが混乱したのは「禅定を経ることなしにサティをしなさい」と言われたから』第四図の中で実践してしまい、その結果うまくいくはずがなく、第四図の中で自分を消していくこと=無我と勘違いしてしまう。
サティは実践しない限りは分からない。つまり第五図に入らないとサティが分からない。だから私たちのやるべきことは「第四図・第五図・第六図の世界観を持ってサティの実践を丁寧にしていくこと」とはっきりと示してくださいました。

もともと、お釈迦様が発見した誰も知らなかった事「サティ」。こうして今お釈迦様の発見した「サティ」を実践し体感できることが本当に嬉しいです。大乗とテーダワーダの伝統がひとつになり、本当のサティの意味が分かった。これは両方実践されて来られた山下先生にしか出来ないお話ですね。誰も言っていないから、少数派だから間違っているとは全く思いません。むしろ宗派を超えて、広い視点で仏教の流れを見て、正しい答えを導き出せたのだと感じます。

そこには山下先生ご自身が、2つの伝統の中の仏教に人生を捧げて修行され、真理を探求されて来られた大変な努力とご苦労があったことと存じます。おかげで、こうして私たちは有難いお話を拝聴することが出来、感謝の気持ちでいっぱいです。

またサンガに帰依する、という点も法話で触れられていました。
「どうしようもない私たち」で構成された集団なのに、なぜ帰依するに価するのか?それは私たちの本質は第五図だから。サンガを第五図の存在の集まり、と捉えていく。

お釈迦様の遺言である「不忘念」。日々マインドフルに、第五図の私として生きることを忘れずにいようと固く決意いたしました。

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17/07/31 ヨーギのためのマインドフルネス 入門

17/07/31 ヨーギのためのマインドフルネス 入門

http://www.onedhamma.com/?p=6116

 

 

ヨーギのためのマインドフルネス、拝聴させていただきました。

 

日本仏教の歴史、ヨーガの歴史、マインドフルネスの歴史は全部つながっている。「マインドフルネス」はアメリカ生まれではなく、元々はインド生まれである。歴史をさかのぼれば仏教につながり、仏教の中心の教えである。

 

現在、日本の人たちが日常に接する「マインドフルネス」はアメリカで、主にセラピーの現場、企業研修、教育の分野において発展したものであり、「公共性」のゆえに宗教色を前面に出すことが出来ず、曖昧にせざるを得なかった。

 

マインドフルネスはパーリ 語の「サティ」の英訳であり、漢訳は「念」になる。仏教はインドからシルクロードを超えて中国へ来て、教えがすべて中国語に翻訳されており、日本もまたこの中国仏教の流れに属している。

 

サティを念と漢訳したときは、「念」の文字に、「サティ」の意味を込めたはずなのに、「念」という漢字が元々もっている「心の中に深く思う」という意味が強くなり、日本仏教にサティの本当の意味きちんとが伝わらなかった。

 

サティの現代の日本語に訳すと「気づき」になる。間違ってはいないが、私たちの知っているような「気づき」ではない。

サティの真の意味を知るためには、仏教そのものを知らなければいけない。

 

自分とは一体何なのか?
お釈迦様が何をお悟りになられたのか?

「我々はこの世界の外にいる」ということを悟られた。

「第四図」という今まで世界だと思いこんでいたものの外に「第五図」があり、それが本来の自分であった。その第五図からの視点にたち、この世界の外からの気づきこそ、正しいマインドフルネス(サティ)である。

このことからもサティの最も正確な日本語訳は「非思量」となる。

サティ=念=マインドフルネス=非思量

非思量とは、この世界の外に出た時のまったく違う意識のあり方である。

 

ヨーガスートラにも書いてあるように、ヨーガとは心の働き(シンキングマインド)を止滅させて、違う次元(第五図)に入っていくことであり、全く違う意識のあり方を目指している。それが非思量、でありサティ。

マインドフルネスの解説でよく言われる「あるがまま、好き嫌いなしに、今ここで気づく・・・」などは、第四図の中ではできることではなく、すべてこの世界の外に出た時(第五図)に自然になりたつこと。

ヨーガの八支則の7番目にディヤーナがあり、これは、第五図(ジャーナ・禅定)に入っていくことである。

 

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ヨーガのクラスの中で、正しいマインドフルネスが伝わり実践されることを願ってやみません。

ただの体操やストレッチとしてのヨーガはではなく、根本的に世界観を変える、人生を変えていくマインドフルネスなヨーガが広がっていけばたくさんの人が苦しみから救われます。

第四図・第五図・第六図の世界観がどんどん広がり、世界を変えていける、そんな予感がして、ワクワクしています。いつも素晴らしいお話を拝聴させていただきまして、ありがとうございます。

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17/07/23 「念想観の測量」をどの時点で止めるのか?

17/07/23 「念想観の測量」をどの時点で止めるのか?

http://www.onedhamma.com/?p=6097

 

先日、札幌で行われた曹洞宗のご住職さまへの講習会の流れから今回の法話で、

本当の「只管打坐」とは、どこの場所なのかがはっきりと理解する事ができました。

 

禅の伝統の中で坐禅をされる方は、最近流行っている「マインドフルネス」はあやしい、邪道だと感じてしまうようです。

確かに、世間のマインドフルネスは「仕事の効率を良くする」などという「現世利益」的なことをうたっているから、

マインドフルネスとは「坐禅することで何かを得ようとすること」と思い、胡散臭いと感じてしまう。

無所得の坐禅が正しく、有所得の坐禅は邪道だというのが、基本的な立場だから。

 

しかし、ここに大きな誤解がある。歴史を遡ると、そもそも「マインドフルネス」の源はパーリ 語の「サティ」であり、

その英訳である。つまり、マインドフルネス=サティである。そして仏教においては、サティとは八正道の七番目の「サンマ・サティ=正念」のことであるから、仏教のど真ん中の教えであり、いわば仏教そのものともいえる。

サティ=仏教なのだから、つまり、マインドフルネス=仏教そのものとなる。

 

となると、マインドフルネスを否定するのは、仏教を否定することになるという大変な事態が起きてしまう。

何故こんなことになるのでしょう。

 

仏教が中国へ伝わったとき、サティは「念」と漢訳された。

しかし、この「念」という漢訳が、元々の漢字の「念」の意味に大きく引きずられてしまい、「念」からサティの意味が失われ、漢字の意味である「心の中に深く思うこと」ととられてしまい、結果として、八正道の「正念」の意味も曖昧になってしまった。

 

また、お釈迦さまと、道元禅師の遺言でもある「八大人覚」の五番目の「不忘念」も、本来の意味は「サティを忘れるな、いつもマインドフルでいなさい」という、お釈迦様の教えそのものであるのに、日本仏教史では、「不忘念」を「不妄念」とうっかり読み間違えることが頻発した。

 

そのほうが、日本の仏教徒には腑に落ちるからである。なぜか?

 

それは「念」を「深く思う」と訳すと「不忘念」は「いつも深く思っていなさい」となり、これは「何も想わない坐禅」とぶつかってしまうから、禅僧たちの腑に落ちないのだ。それよりも、「不妄念」と読み違え、「妄想をしない」ととった方がしっくりくるのである。

でも何かおかしい。

また、普勧坐禅儀の最初においても、「あなたはすでに完璧だから只管打坐していればいい、汚れやほこりを超えているから掃除なんてしなくていい」と言われても納得がいかない。「あなたには貪りや怒りがあるから、それをヴィパッサナーして消していく」と言われた方が納得できるので、多くの人が「仏教2.0」に飛びついた。

 

これらの混乱は、「念=サティ=マインドフルネス」がはっきりしなかったからでは。

山下先生は大胆にも、「念=サティ=マインドフルネス」を、「非思量」としてとらえることを提言しています。

非思量とは「普勧坐禅儀」の最重要な言葉で、以下のところから来ています。

 

「兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。」

普勧坐禅儀のこの有名な箇所も、第四図の中で読むと訳が分からなくなるが、これも第四図・第五図・第六図ですべて読むことが出来る。

 

「思量」とはシンキングであり、「不思量」とは考えないこと、いずれも第四図の中での普通の意識活動である。それに対して、「非思量」とは全く違う意識であり、シンキングが届かない場所にあるもの。それは第五図の場所であり、我々の本質。そこから物事を見るのが気づきでありマインドフルネスである。よって、「非思量=マインドフルネス」となる。

 

呼吸が見えるのは非思量が働いているからであり、主体と客体の分かれている世界(第四図)から既にでて、第五図に入っている。そこからヴィパッサナーが始まり、徹底的に探求していく。第五図から第六図に移行するところで、世界は「道本円通」としみじみわかったので、あとは只管打坐すればいいのだ、となる。

 

つまり、只管打坐とは、ピッチャー交代して、第四図から第五図に移行し、その場所で、非思量であり続けるということになる。つまり、只管打坐はある場所(第五図)に行って初めて成り立つということ。

いきなり只管打坐に入ることは不可能である。まず、サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も順番におこなった後、ある次元に達して、只管打坐に入るのであり、入ったあとに「何にもしない坐禅」「何にもならない坐禅」となる。

 

 


以前の私は、仏教を第四図の中で解釈した訳を読んでは、全く意味が分からず頭を抱えていました。難しすぎて分からないものだと思っていた仏教が、山下先生のおかげで理解することが出来ています。本当に嬉しいです。

また、坐禅をされている方が、なぜそんなにマインドフルネスを否定されるのかもよく理解できました。仏教を「流れ」の中で理解することが大事だと感じました。

本当の仏教を知って腑に落とすことが出来たら、こんなに素晴らしいことはありません。貴重なお話を拝聴させていただきまして、ありがとうございました。

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17/09/28 エゴに騙されないための入門講座

17/09/28 エゴに騙されないための入門講座

http://www.onedhamma.com/?p=6361

 

今回もエゴの話を大変分かりやすく話してくださいました。

人間がつまずくところは今も昔も変わりなく、キリスト教や仏教なども関係ない。エゴを乗り越えるために瞑想をやっているにも関わらず、その過程でエゴによって非常に困難な状況に陥るってしまうという皮肉な現象がおこる。

エゴにとってはエゴを乗り越えられてしまったらたまらないから、何とかして止めようとする。これが瞑想者に困難な状況をもたらす。

瞑想の過程で、「第四図の私(エゴ)は幻である。第五図の私が本当である」と気づくことで、第四図(エゴ)乗り越えていく。しかし、エゴの側からしたらたまったものではないから、あらゆる手段をつかって反撃にでる。エゴにとって、エゴの問題を取り扱う自体がう脅威であり、真理を指し示す本当の言葉はエゴにとって不愉快なのである。

自分にとって一番大事なものをわざと壊すことは、エゴにとって最高の喜びであるから、自分がこれまで一番大事にしてきたものを憎み、全否定することによって捨ててしまう。

エゴに支配された心は神から離れ、エゴに支配されない心は神に近づく。悪い思いで占められた心は、神から離れていく方向に快楽を感じ、聖なるもの、美しいものを壊したくなる。悪徳を喜ぶ、それがエゴの正体。

警察が詐欺の手口を公開し、警告するように、自分がエゴに乗っ取られたときどうなるかを知る必要がある。エゴの手口を知り、エゴに乗っ取られないようにする。

「豚に真珠を与えるな」という言葉が聖書にある。それは「エゴに支配された人(豚)に、聖なる教えである福音(真珠)を与えるな」という意味である。エゴに支配された人間は、教えを理解しないだけでなく、かえって襲いかかってくるのである。そういう人たちにも気をつけなければいけないが、もっと気をつけなければいけないのは自分の内側。

第四図の私しかいないとしか存在していないと思っている私。比較の世界で、優越感と劣等感で常に苦しむ。それはエゴに襲われている、ということ。また、それからすべてのものに意味を見いだせなくなり「無意味」に感じてしまうのも大変危険である。エゴの手口を見抜いて進んでいくのは、瞑想のテクニック以上に大事なことである。

瞑想やヨーガが聖なることだからこそ、それが実現されたら困る、というエゴ、エゴに支配された人が存在するということを知っておくことは、非常に大事だと感じました。こんなことをやっても意味がない、無意味だと感じて全否定して、一番大事にしてきたものすべてを捨ててしまう。そのようなエゴの手口を知ること、エゴ(第四図)は幻であり私ではない、私の本質は第五図である、と確信することが大変重要だと感じました。

| 23:47 | comments(0) | - | pookmark |
17/09/24 偽りの「霊的慰め」によって自分を見失わないために

17/09/24 偽りの「霊的慰め」によって自分を見失わないために

http://www.onedhamma.com/?p=6353

 

法話拝聴させていただきました。

現在の日本では、仏教が本当に生きて行く力にはなっていない。法要に読まれる般若心経も、意味もわからない単なる効果音に過ぎず、西の方に阿弥陀様がいる浄土があると言われても、おとぎ話に過ぎない。仏教が、生きている人間にとって価値があるものと思えなくなった現代にあって、約20年前のオウムの直後くらいから、自分の人生に役に立つような仏教(テーダワーダ)があらわれた。それを更に世間に合わせた後継者が現在流行のマインドフルネスである。

でも本当に日本の仏教は訳のわからない、単なるおとぎ話なのか?極楽浄土も、人間は既に最初から完璧なんだという話も。

「マインドフルネス」が日本にやってきたとき、「日本仏教」とは相性があまりよくなかった。この状況も、本当の正しい「マインドフルネス」と第四図、第五図を理解されると、劇的に変わる。般若心経の真意が分かり、極楽浄土が実在すると分かるようになる。そういうワクワクする時代に入って来ている。宙に浮いたものを、マインドフルネスの本当の意味を知ることによって地に足を着かせることが出来るのである。

確かに、心の汚れを取り除き、汚れがゼロになるのを目指すのは一見わかりやすい。

こころの汚れとは、「好き、嫌い」という反応だから、汚れを取り除くために、こころを刺激するものに触れないように、反応しないようにするようになる。そうすると自分の心からも離れてしまい、人生そのものが無意味になって、最終的には生きていなければいい、となってしまう。反応をなんとかゼロにしようとすると、生き生きしたものがなくなってしまう。この文脈での慈悲は汚れを消すためのものという矮小化されたものになる。

仏教1.0、2.0、3.0は理論だけではなく、リアルな話し。同じお寺の中で1.0と2.0で分かれて争ったりが、実際に起こっている事実である。3.0は、その分断を正しいマインドフルネス、サティによって乗り越えるための活動である。

世間とは真反対の瞑想の世界にコミットしながらも、激しく精神的に「荒む」人が出てくる。しかもその荒み方は世間の荒み方より激しくなる。柳田神父様の著書「日常で神とひびく2」には、その最初のきっかけは、悪魔は悪魔としてはやって来ず、善良な顔をしてやってくる。霊的な慰めとして近づいて来てしまう、とある。真の霊的慰めは穏やかでさりげなく、偽りの霊的慰めは派手で大げさになりやすい。偽りの霊的慰めの体験からパターンを学び、失敗の中から学んで行く。自分の心のはたらきを見分けていくことは知恵であり、知恵は経験の蓄積から生まれる、と書かれている。

神から引き離すはたらき、というのは「第五図に基づいて生きるはたらきから引き離そうとするはたらき」のことである。

本当の第五図を知ったら、今までの第四図の世界で100分の1の私として生きてきて、人と競いながら生きてきた世界がひっくり返る。これは、今までの人生は何だったのか、人生をかけてやってきたのは何だったかというショッキングなことである。

第五図は最初は100%怖いものとして経験される。第四図がヒビか入って崩れるから。そこを経ない限りわからない。

それが分かれば道元禅師が言っていることも理解する事が出来る。
「古仏云、尽大地是真実人体なり」・・・この世界そのものが本当の身体なんだ、と。

これは「身体が大自然の働きなんだ」ということでもなく、「私と世界がひとつになりました」という話ではない。第五図の世界の話であり、第四図のなかで想像したのとはまったく違う話。ここまでいって初めて仏教で言っていることがどういうことか分かるようになる。

世界がひっくりかえる、それくらい仏教はすごいもの。

世界がひっくり返ったとき、そこにあるのは派手さや舞い上がる感情はなく、最初はただ怖く、震え上がるもの。世界はこういう構造になっていたということを知ることで、怖さは収まり、実は第五図が悩みや苦しみの根本を解決するものだったということがわかる。

先回に続き、「霊的荒み」の話はとても勉強になりました。どうやって荒んでいくのか。どうしてそんなにも人生において最重要なものを手放し、捨ててしまうのか、ということが分かりました。

また、私自身が第五図を経験した時に感じた、「今までの人生、今までの努力は一体何だったのか」という脱力感と絶望、そしてそれを誰にも理解されない孤独感。そこの部分を先生は全部おっしゃってくださって、涙が出ました。それまでずっと努力に努力を重ねてなんとか上に行こう、という人生でしたから、本当に世界がひっくり返りました。

深い落ち込みと混乱の中で、一法庵に出会い、第五図を本当の意味で理解することができたとき、あの闇は実は恩寵だったのだと分かりました。本当に感謝しています。

人生において最も大事な部分を捨ててしまうことがないように、これからも第五図を自分の人生の中心に入れて、日々向き合いながら生きていこうと固く決意いたしました。いつも素晴らしい法話をありがとうございます」

| 23:50 | comments(0) | - | pookmark |
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