山下良道師法話まとめ

18/03/25 読売新聞のマインドフルネス記事を「3.0」から読み解く

18/03/25 読売新聞のマインドフルネス記事を「3.0」から読み解く

http://www.onedhamma.com/?p=6553

既存のマインドフルネスと光の中のマインドフルネスが。合わさることによって起こる奇跡。今まで二重構造が欠けていたからこそ、色々なものがはっきりしなかったのだとよく分かりました。

 

「死と輪廻」のような究極な問題も、光の中のマインドフルネスになって初めて解くことができる。二重構造だからこそ解ける。死と輪廻は第四図の中でのみ存在するのであり、第五図には存在しない。

最近(3月20日)読売新聞に掲載されたマインドフルネスの記事について。記者の感想を読むと、マインドフルネスを世間がどうとらえるのかが分かる。

 

マインドフルネスとは「自分の気持ちを客観的に観察している」こと。「とらわれのない状態で観察する」こと。ありのままに観ることが基本となる。「怒っている自分」を客観的に観察することで、「ああ、いま自分は怒っているな」と気づく。囚われなく、評価なく、好き嫌いなしに気づく。そのような気づきがなりたつのは、過去や未来ではなく「今」。「今」のなかで気づくのである。

 

この自分のこころを横か観るような視線は、全く初めての視点である。その結果として、心が穏やかになり、怒りからすこし楽になるという経験をするが、それは、ビギナーズラック。そのとき、これを地道に続けてゆけば、自由になれるのではないか、と期待する。

しかしこのビギナーズラックは、普通は続かない。そのうち、マインドフルネスとしての「気づき」が、いままで良く知る気づきとの違いが、分かったようで分からなくなり、うまくいかなくなる。マインドフルネス学会による定義「マインドフルネスとは、今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」これを本気でやったら失敗する。それは必然的であり原理的な失敗である。

 

何故失敗するかというと、最初から原理的にできない宿題が出ているのである。本気でやって失敗し、その失敗した自分をごまかさないでいることで、このマインドフルネスという宿題の真意がわかる。一生懸命やった末に「自分を客観視すること」はできない」と、敗北を認めた人は、いままでの何かが死に、新しい何かが生まれるのを経験する。

では、お釈迦さまが、我々になぜ最初から不可能な宿題を出したかというと、自分を客観視することは、今までの自分(第四図の私)のままではできないことを知らせるため。それが可能であるためには、今までの自分ではない新しい何かが必要になってくる。

既存のマインドフルネスは、第四図という発想のなかだったが、そこに第五図という新しい発想が加わると、奇跡が起こる。第五図がない時ははっきりしなかった「マインドフルネスの主体」が見えてくる。自分を客観視するのは、第五図としての私であり、マインドフルネスとは、第五図からの視線である。

 

出来ない宿題が出されたのは、自分を客観視するための全く新しい私、新しい考え方へと導くためのものであった。

光の中のマインドフルネスは、只管打坐がぴんとこないひと、阿弥陀様に救われるとは何か、キリストの復活とは何かの意味がわからない全ての人達を救うことができる。

第四図から第五図へは地続きではない。その間は、完全に断絶している。一歩一歩進むものではない。正確なメソッドが必要。まず、微細な感覚を感じることで、映画の上映とそこにのみ込まれることを止める。そのあとで、慈悲の瞑想で第五図へとジャンプしてゆく。慈悲の瞑想の目的は、ネガティブな心を良い心に変えるとか、心が穏やかになることを目指すようなレベルのものではなく、第五図へと跳ぶためのものである。なぜなら、慈悲は第五図にしか存在しないから。

 

その慈悲の瞑想で大事なのは、自分を捨てること、何かに身を任せること。ここでは、一切の自力は通用しない。絶対他力が慈悲の瞑想の急所である。これはエゴが最も嫌がることである。ゆえにエゴは慈悲の瞑想に反発し「慈悲の瞑想は不必要」と主張しがちである。この慈悲の瞑想という、エゴが一番嫌がることをすることによって、我々はエゴを乗り越えることができる。

本当のマインドフルネスが分かった時に、第五図としての私が分かる。第五図としての私が分かったときに、第五図には、死も輪廻も存在しないのだと分かるのである。

 

 

※※※※※

 

山下先生のおっしゃるように、既存のマインドフルネスブームは、今まで自分を客観的にみることなど考えたことすらなかった人にとって、全くなかった視点だったと思います。怒っている自分に気づく事で、怒りが小さくなった、という経験は、今まで怒りに完全に巻き込まれていた人にとって、驚きの体験になると思います。

しかし二重構造がはっきり提示されず、第四図の中で気づこうと頑張るしかないのが今の既存のマインドフルネスで、原理的に無理なことをやっているのだから、どうしても出来ないからやめてしまったり、怠けてしまう。

理想を目指し、第四図のなかで頑張って頑張って、一生懸命やってみてもうまくいかないという絶望を経験する。しかしこの絶望のなかで「敗北」することで、私たちが二重構造だということが分かる道が開かれる。ここでごまかさず負けを認めた人が、第五図へといけるのだということがよく分かりました。

慈悲の瞑想を先生が最重要だとおっしゃることに全く同感です。慈悲の瞑想の素晴らしさは、自分自身がいつも体感しています。自分が手放されていくのを毎回感じて、深い慈悲に満たされていく喜びを感じています。

http://www.onedhamma.com/?p=6553

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18/03/18 マインドフルネスという原理的に実践不可能な「宿題」が出された意味

18/03/18 マインドフルネスという原理的に実践不可能な「宿題」が出された意味

http://www.onedhamma.com/?p=6541

相手に寄り添いなさい、相手と共にありなさい、相手をジャッジしてはいけない、あるがままに受け止めなさい」というのは社会福祉の美しい理想である。

また「マインドフルネスとは、今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」というマインドフルネスの定義。評価せずとらわれのない状態で観る事はその通り。

マインドフルネスの理想、福祉の理想、理想掲げるとはどういう事かと言うと、その反対の状況があったからである。普通は、お互いに孤立し、相手をとらわれの偏見で見ている。それが苦しみを生んでいるから、そうではない状態を、福祉のなかで、マインドフルネスのなかで、本気で目指すことになる。そのうえで、それが実際にできるのか?と言う真摯な問いかけがでてくる。

福祉の理想も、マインドフルネスもそれを本気で実践しようとすると、100%失敗する。失敗するのは必然的なこと。ここでうまくいかない自分をごまかさずに認められるか、失敗を認めて、うまくいかなかったことに本気で向き合えるか。できない自分にどれだけ誠実に向かい合うか。

努力ではどうにもならないことがある。人間が機械を使わずに、空を飛ぶ事は原理的に無理であるように、マインドフルネスの理想である「評価せずとらわれのないように観る事」は原理的に無理なのである。

先日の関西学院大学でこの点を理解して下さったのは、とてつもない時間をかけてこの理想を実現させようと本気で信じてやってきた人達だからである。

評価やとらわれを、服についた汚れを落とすようにしてはいけば落ちると言うわけではない。散々やって苦労しないとここがわからない。

この理想が成り立つにはもう一つ絶対的な要素が必要である。
私たちは第四図であると同時に第五図の人間である。その二重構造の世界観を、表したのが第六図。我々は第四図だけの人間なのではない。

お釈迦様は第五図でしか出来ないなぞかけを出している。絶対にできない宿題を出していて「できません」と言う生徒は、本気でやってきたとわかる。マインドフルネスはなぞかけであり、できないのが正解。

第五図からしかマインドフルネスは成り立たない。私たちは二重構造を生きているということ。第四図、第五図がどう違うのか、理論と実践が必要である。関西学院大学の鼎談で第五図を理解して下さった方たちは、ぼんやりと第五図を感じていたからこそ、理解できたはず。

第四図は一人一人がバラバラに生きている世界。競争の世界であり、弱肉強食の世界。第五図は第四図のようにバラバラに切れていない。つながっているのだから、あえて寄り添う必要も無いのである。寄りそわないとは、その人を苦しめている映画をリアルだと賛同しない、というだけ。

介護の現場は生老病死のリアルな現場である。第五図が大事なのは生老病死の問題を解決できる場所だから。そのとき人間の最も基本的な問題が解決する。生老病死がない世界が実感できたら、介護が楽になる。第五図には生老病死、輪廻さえもないのだから。

京都での春彼岸接心中の法話、インタビューもあり、みなさんが自分と誠実に向き合っているのが伝わってきて感動しました。

私自身も理想を本気で実現したいと、必死に頑張って、評価とらわれをなくそうとしても無くならない、ゼロにならない。そんな自分を「だめなやつ」とまた評価して生きてきました。第四図の私たち自身が、評価ととらわれそのものなのだから、相当無理なことをやって来たのだと分かります。

また、相手の話を聴いて、どれだけ共感して傾聴しても相手を救えない、という絶望も経験してきました。救うどころが相手の映画に巻き込まれてしまい、自分も苦しんでしまう。

映画によって苦しめられている人に、あらゆる方法でなんとかしてその映画から出させること。そして私たちは二重構造を生きていて、第四図であると同時に第五図の存在であること。第五図には生老病死は存在しない、生老病死そのものが映画なんだと知り、実感することが根源的に人を救うのだと確信しています。

http://www.onedhamma.com/?p=6541

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18/03/04 「第五図を前提とするマインドフルネス」への不可逆的な流れ

18/03/04 「第五図を前提とするマインドフルネス」への不可逆的な流れ

http://www.onedhamma.com/?p=6527

一法庵の瞑想は第四図、第五図が肝であり、第五図が標準になる時代がついにきた。「第五図を前提とするマインドフルネス」と「第五図を前提としないマインドフルネス」。今、圧倒的に多いのは「第五図を前提にしないマインドフルネス」である。

マインドフルネスの日本マインドフルネス学会の定義はこうなります。「マインドフルネスとは、今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」今この瞬間の体験、つまり身体の感覚や呼吸、感情などに意図的に意識、注意を向ける。そのうえでそれらを、評価せず、好き嫌いのない、にとらわれのない状態で観るのがマインドフルネス。

 

なぜマインドフルネスは、第五図を前提としなくてはならないのか?の答えもここにある。「評価やとらわれのない状態で観る」のが原理的に不可能だから。努力さえすれば到達可能なことではないから。とらわれ、好き嫌い、評価は、自分の洋服の上についたゴミのようなもので、ゴミを払っていけば綺麗になると、いうものではない。評価ととらわれとは、自分自身そのものなのである。だからそれを取り払うことは、原理的に不可能。

 

「相手に寄り添いなさい、相手と共にありなさい、相手をジャッジしてはいけない、あるがままに受け止めなさい」というのは社会福祉の理想である。この理想に惚れ込んで、それが出来たらどんなにすばらしいだろうとがんばるが、できない。どうしてもジャッジしてしまう。理想を実現したいと思っているのに、実現できない。邪魔するのは自分自身だという絶望。

マインドフルネスが社会福祉の理想を実現するカギになると思っていたのに、マインドフルになれなかった。熱く信じている人だからこそ、できない自分に気づく。自分自身がジャッジやとらわれから逃れられないことで苦しむ。それがあってこそ第五図の必然性が出てくる。

 

反対に理想が実現できない自分に苦しまない人たちもいる。社会生活ができない人に対してのマインドフルネスを、社会復帰だけを目標とする。つまり、目標値を低く設定している。理想を高く掲げていないから、理想が到達できないからと苦しまない。しかし、当然これでは生老病死の問題まで解決できない。

最近の一法庵のテーマであった「寄り添わない」と言う話が、先日の関西学園で苦しんでいる人たちに命がけで寄り添っている人達に対して通じた。「寄り添わない、グリーフケアが必要じゃない」という言葉の真意が伝わった。

私たちは、映画によって苦しめられているのだから映画そのものから出ることが苦しみからの解放となる。これが分かれば多くの人が救われる。寄り添はないと言う事は、「あなたの映画の中に入ってあなたのなかの映画の中の敵を一緒に糾弾することはない。」ということ。映画の中から救い出すために。

 

そして生老病死は存在しない、生老病死そのものが映画なんだと言うこと。それこそが人生の最後を迎える介護や福祉、医療の現場にとって一番必要なこと。医療介護の未来が見えてくる。福祉の理想を掲げて、その実現をできなかった人が第五図に入っていくことで、「第五図を前提としたマインドフルネス」へのアップデートが起こる。前に進んで行くにはこの道以外にはない。

第五図に入った瞑想の先生達の話は大変素晴らしく説得力がある。でも素晴らしいと思いながら、それを自分がやろうとしてもできない、という事がある。自分と先生のいる次元の区別がつかないので、第四図で先生のようにやろうとしても出来ない。

 

ティク・ナット・ハン師の言葉に「苦しみを嫌がったり、消そうとするのではなく、優しさいっぱいに抱いてあげます。しっかりと見つめてよくあやしてあげると落ち着かせることが出来ます」とある。そのようにネガティブなものを、赤子のようにあやしていくという言葉はものすごく説得力があるが、第四図ではそのようにできない。第五図にいる人を第四図でまねすることは出来ないのである。

ハン師は第四図を歴史的次元、第五図を絶対的次元と示している。第五図は特別な人だけが実感できるものではない。ワンダルマ・メソッドによって誰でも実感することが出来る。第五図を実感すれば、テキストもハン師の言葉も理解することが出来る。

福祉や介護の理想、マインドフルネスの定義を、「それが出来たらどんなに素晴らしいだろう」と一生懸命理想に向かって努力してきた、そしてそれが出来ないと絶望した人達。患者さん、そして自分自身に真剣に向き合い、出来ない自分をごまかさなかった誠実な人達に、「寄り添わない」真意が伝わったのだという事がよく分かりました。

 

誠実に正直に本気で取り組むが、それが出来ない自分に気づき、絶望に突き落とされる。しかし、その闇を知っているからこそ、人間が二重構造であること、第五図の存在がすんなりと受け入れられる。

ごまかさない生き方が、結果として第五図への導かれるのだと感動しています。
そして、特別な先生だけではなく、誰もが第五図を実感できるワンダルマメソッドが存在することが、本当にありがたく、素晴らしい事だと思います。日本のマインドフルネスが、「第五図を前提としたマインドフルネス」へとアップデートが始まり、大きく前進していくのを感じています。

| 05:39 | comments(0) | - | pookmark |
18/02/25 介護の現場が「聖なる場所」になるために

18/02/25 介護の現場が「聖なる場所」になるために

http://www.onedhamma.com/?p=6518

池埜先生、有光先生との大変貴重なお話を聞かせていただきました。

先生方のおっしゃるように、この話は、医療と福祉の現場にとって革命を起こすものであり、大きく変わるきっかけとなるお話です。このような素晴らしいお話が聴けて深く感動しています。
日本マインドフルネス学会の定義によると、マインドフルネスとは「今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」となっている。「評価せず、とらわれない」というのは仏教用語の「ウペッカ」にあたり、漢字では「捨」となり、日本語では「平静さ」となる。つまりマインドフルネスの肝は「ウペッカ」になる。

では、評価せずとらわれずに観ることができるのか?
世の中にはがんばれば出来ることも多いが、空を飛ぶことが無理なように、いくらがんばっても、原理的に無理なことがある。
ではマインドフルネスを、我々ははたして出来るのかどうか?
この答えはイエスでもありノーでもある。

ノーというのは、ある条件(第四図)のもとでやろうと思ったら無理で、イエスというのは全く違う次元(第五図)でやったならば出来るという意味である。

第四図のなかでは、私たちは、どこをどうがんばっても評価や好き嫌いから逃れることはできない。第四図の中の私の存在そのものが好き嫌いであり、評価であり、とらわれなのである。だから原理的にマインドフルにはなれない。
私たちは全く違う次元を同時に生きている。人間が二重構造になっているということ、これがマインドフルネスの肝であり、マインドフルネスの奇跡である。

マインドフルネスが医療介護の現場で単に働いている人の心を静めたり穏やかにするだけではなく、私たち人間の二重構造がわかり、ただ単に歳をとって死んでいく存在ではないということがわかる凄いものなのである。

(質問)第五図へのジャンプへ必要なことは?

(答え)
私たちは第四図であると同時に第五図の存在でもあると実感できるのがマインドフルネスである。マインドフルネスは第五図へのジャンプを要求している。まずは失敗して、とらわれなく好き嫌いなしに生きて行くことができない私をまず発見することが大事である。とらわれや好き嫌いによって苦しみを生んでいるのだから、それから解放されたらどれだけ幸せかということが分かる。
ワンダルマメソッドによって、体に戻って体の感覚を取り戻し、不幸な映画の中から出て、実は映画館の椅子に座っているだけということを思い出す。
長年、その映画をリアルだと思い込み、その映画に対して体で反応していたので、身体が歪んだり固まったりしている。その結び目をほぐしていく作業がヨーガのアーサナである。

(質問)
病気の重症の方のマインドフルネスは?

(答え)
生死の問題は小手先ではうまくいかない。私たちは実は第五図の存在なんだと実感するしかない。そこを実感できれば介護の現場が聖なる場所になる。第四図のなかの存在が崩壊している過程だからこそ、人間は第五図の存在だということが見えてくる。病気が重症の方に必要なのは世界観の転換である。

(問い)
福祉の人材を育てるとき「相手に寄り添いなさい、相手と共にありなさい、相手をジャッジしてはいけない、あるがままに受け止めなさい、そういう態度で示しましょう」と学生に教えていく。そのために訓練してスキルを高め、そういう人に国家資格が与えられる。しかし現場では、一生懸命あるがままに受け止めようとするが、うまくいかないのが現状。死に直面する人に対して辛くなり、燃え尽き、自分には向いていない、こんなしんどい仕事はしたくないと辞めていく。今は第五図という次元の違う存在に入る方法をほとんどの方が知らない。第五図を実感して医療福祉の現場が聖なる場所になる展望をお聞かせ下さい。

(答え)
我々は「寄り添わない」。ゴジラは映画の中の存在であり、実際には実在しない。「ゴジラは怖いよ」という人に「ゴジラは怖いよね」と言うことで、その人はゴジラが本当に存在していると信じてしまう。寄り添わないというのは突き放すのではない。「怖がる気持ちはわかる、でもゴジラは本当にいるのだろうか?体を感じてみよう。ゴジラはこの自分が座っている部屋にはいない。この映画館の椅子に戻ってこよう」という事を伝える。

われわれは映画の中で苦しんでいる。苦しみからの解放は映画から外に出ることであり、ゴジラがいない空間に戻ってくるということ。

本当に寄り添うのだったら、その悪夢からこの場所(第五図)に戻してあげる。第五図をわかった上で寄り添うのなら、また全然違う寄り添いになる。

(問い)死生観について。

(答え)
愛する人を亡くしたのではなく、あなたの亡くしたのはその人の肉体であって、愛した人は亡くなっていない。
愛する人をなくして打ちのめされた人を本当に救うのは、本当の存在は第五図だったと実感してもらうこと。表面的なグリーフケアではなく、本当のグリーフケアはあなたの愛する人は死んではいないと本気で伝えること。それには人間が二重構造だと実感していなければいけない。

(感想)
私自身も愛する人達を救いたかったけれど、あらゆる方法を試してもどうしても最後まで救うことが出来なかった、という深い絶望を経験してきました。傾聴し、共感的理解を示し、どんなに寄り添ったとしても、相手の問題がまったく解決されないという現象を目の当たりにしてきました。それは映画なんだと、そして私たちの本質は第五図である、という話が伝えられたらどんなに救いになっただろうと思います。

相手の映画の話を延々と聞くことで、ますます相手が映画をリアルだと信じ、映画の中に閉じ込めてしまう。相手を救おうとよかれと思ってしている事が、相手をますます映画の中に入り込ませてしまい、苦しめてしまう。

大切なのは援助者が二重構造を理解していること。第五図の視点から本当の寄り添いをしていき、苦しみや悲しみのない世界、映画の外へと出してあげること。

お話を聴いていて、大変感動したのは、池埜先生も有光先生も、山下先生の「寄り添わない」というお話を、反発することなく、聴いて下さっていた事です。

実際に医療介護の現場で死に向き合い、ご家族やご本人に真剣に寄り添い、なんとか苦しみから救いたいと思いながらも、それが出来ないという限界を感じていたからこそ、山下先生のお話が伝わったのだと思いました。

また、教授として福祉の人材を一生懸命育てながらも、その人達が燃え尽きてしまうという現実の中で、何かが足りない、根本的に何か違うのではないか、と感じていらっしゃったのだと感じました。

鼎談の締めくくりに「今日の話は革命であり、これまでの教育、臨床そのものの捉え方に地殻変動が起こる。凄い時代だと感動している」と教授がおっしゃっていました。まさに、このお話が日本の医療介護の現場を大きく変えていき、医療介護、福祉が聖なる仕事になっていく予感がします。第五図の慈悲、アガペーの医療福祉が実現していくのを感じて、本当にワクワクしています。

http://www.onedhamma.com/?p=6518

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18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

http://www.onedhamma.com/?p=6506

マインドフルネスの主流で言われるのはまず第一に「好き嫌いなし」「判断なし」に観察することの大切さ。

では、そもそも「好き嫌い」「判断」とはどういうことなのか?多くのマインドフルネス本の一番大切な箇所で書かれていながらも、その核心部分が曖昧にされ、きちんと説明されていないという現実。今回は、その核心部分を分かりやすく語って下さいました。

私たちが普段の生活でおこなっている「判断」は、そもそも悪いことなのだろうか。悪い判断、良い判断があるならば、「判断なしに」というのは、どういう判断をさすのだろうか。何も判断せず、好き嫌いがなければ、本屋に行ってもカフェに行っても選ぶことが出来ない。

第四図と第五図をきちんと区別する必要があるようだ。もし「第四図」しか存在していないとなると、どうしてもそのなかの「良いもの」と「悪いもの」は決定的な重要性をもってしまう。それが自分の幸不幸をすべて決めてしまう。

第四図の中で、悪いものために自分は不幸になってしまったと思い込むと、その後は、悪いものを批判して攻撃する。親のために、あの出来事のために・・・と。私は第一義的に「被害者」というアイデンティティをもつことになる。私を不幸にする原因が外にあって、私はその「被害者」。そして私を苦しめる「加害者」を批判し、攻撃し、謝罪を求める。一日中、加害者の事ばかりを考えている。たとえ50年前に起こった出来事だとしても。

ところが、私たちの本質は第五図であり、そもそも第四図は存在しない。不幸な映画は、すべて自分のこころが制作しているもの。自分で映画を作って、その映画の世界に閉じ込められる。映画とは思わず、現実だと一切疑わずに、思いこむ。

では映画を作り始める最初の第一歩は何か?
それが「好き嫌い」であり、「判断」なのである。マインドフルネスによって、好き嫌いや判断をどうして捨てるべきなのか、この説明がはっきりしていなかった。

その映画に閉じ込められて苦しんでいる人に対して、「そうだよね、つらいよね」と寄り添って、相手の苦しみを理解するのは、一見親切な良い行為のように思えるが、実は、ますますその人を映画の中に閉じ込めて地獄に突き落としてしまう。

その人を地獄から救い出すために、あらゆる手段を使ってあなた現実だと思ってるものは、映画なんだと知らせるしかない。

自分で作った不幸の映画の外に出ることが、唯一の救う方法なのである。

マインドフルネスは、今実際に苦しんでいる人に求められているが、本当はすべての人にこの薬を使う必然性がある。それはすべての人が映画にとらわれていて、映画に入っているとも気がついていないからである。

私自身、カウンセリングを勉強していく中で、延々と過去に起きた出来事に対して愚痴を言い続けたり、自分がいかに被害者かを訴える人に対して、ひたすら傾聴したところで、相手の問題が全く解決されない、もしくはまた何か問題を作り出して被害者を続けて行く、という例をいくつも見てきました。

そんな中で「共感」や「傾聴のカウンセリング」に限界を感じていました。本当にその人の問題を解決するのは、自分自身の作り出した映画の中で苦しんでいることを知ること。本当の私とは何か、を知ることなのだと今になり理解する事が出来ました。

映画の中で苦しんでいる人たち、そして映画にとらわれて、映画の中に入っているとさえ気がついていない人達が、本当のマインドフルネスを知り、映画の外から出て、苦しみから根本的に解放されることを願います。

http://www.onedhamma.com/?p=6506

| 05:29 | comments(0) | - | pookmark |
18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

http://www.onedhamma.com/?p=6494

ここに本文を記入してください。

真理とは普遍的であるべきで、1+1=2である、というのと同じように、どこの国の人でも、

どんな年齢の人でも通用するのが真理である。

 

ある伝統では「神」を使い、ある伝統では「神」を使わない。この2つがあって普遍的な真理にたどり着くことが出来る。

デリケートな真理なので、あらゆる表現が存在しているのである。

「判断なしに観察するのがヴィパッサナーである」と言われている。


世の中には努力すると出来ることがある。例えば英会話なら努力すれば出来るようになるが、

ヴィパッサナーは努力すれば判断なしに観察することが出来るようになるだろうか?それは絶対に出来ない。
何故ならシンキングマインド=判断だから、原理的に無理なのである。

判断することで苦しみを生んできたのだから、判断しないことを選ぶように言われてきたことが大混乱の元であった。

これは一重構造の中で、たった一つの心があって、その心が判断してきたから、これからは判断しないように生きよう、

ということであり、これをすることは非常に辛いことである。


一重構造である限り、反応しないことを数量的に減らしていく、反応しないところを目指していくしかない。

「判断なしに観察しなさい」と表現したことが「私が努力すれば判断なしに観察できるようになる」と誤解された。
「キリストの復活」も「ただ坐りなさい」という表現も二重構造を表現しているのである。


では「判断なしに観察しなさい」は何を目的とした表現か?
それは「もう一人の私を判断なしに観察する私。先発ピッチャーはシンキングマインドであり判断そのものであるから、

リリーフピッチャーの私を生きなさい」ということ。

 

「気づきなさい」というが、一番大事なのはどかから気づくか。
第五図にいさえすれば自然と出来ることを、第四図の中で無理して気づいている。

私たちは第四図以上の存在であり、第五図の存在である。第五図の存在は判断なしに好き嫌いなしに観察する。

映画館の映画の椅子に座って(第五図から)映画(第四図)を観ている。映画の世界(第四図)には存在していないから、

第五図から客観的に好き嫌いなしに観ることが出来る。

 

この「映画の世界(第四図)には存在していない」のという智慧とともに、この映画すべてのものに深い愛を感じる。

それをキリストでは「アガペー」、仏教では「慈悲」と呼ぶ。「実は私は映画の外(第五図)にいる」という智慧と、

アガペーを持って映画の世界を生きていく。映画の世界で0になることを目指す必要はないのである。

 

柳田神父様との対談の中で話題になった落とし穴として「第五図がわかった偉い俺」という心が出てくることについて。

第五図の中にプライドが入ってくることはあり得ない事であり、それはただ頭でわかったに過ぎない。

「慈悲の瞑想が必要でない、慈悲がわからない」というのも第五図を経験したことがないからそのような発言になる。

第五図を経験したら慈悲の瞑想が重要だと分かる。

 

※※※※

 

第五図を経験して、それから瞑想していなかったらエゴの誘惑、プライドの誘惑に負けてしまう。

楽しんでやり続けていけばそのような誘惑に惑わされることはない。

柳田神父さまと山下先生の宗派を超えて真理を追究されていく姿勢に本当に深く感銘を受けました。

複雑なものをわかりやすく、混乱を鎮め、分裂を統合し、真理を明らかにしていく山下先生の法話にいつも深い愛、

慈悲を感じています。
これからも歩みを止めることなく、楽しんで瞑想をやり続けて行きたいと思います。

 

http://www.onedhamma.com/?p=6494

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18/01/28 サルナート初転法輪如来像が象徴する「ワンダルマ」

18/01/28 サルナート初転法輪如来像が象徴する「ワンダルマ」

http://www.onedhamma.com/?p=6481

宗教教団に所属する事は、教団独自の教義を受け入れることであり、その教義は他では通用しない。教団の中でしか、意味を持たないから。それは最初から、普遍的真理ではないと、宣言してしまっていることになる。現代の人間は、全世界に通用する真理でないかぎり、怪しいと感じてしまう。

しかし、教団ごとに違う教義を、バハイの見方をして、「何かが生まれているプロセスで、お互いを補い合うものだ」とするならばひとつの真理が生まれる。

ウ・ジョーティカ長老は、涅槃と観察についてこう語る。

「涅槃の状態に入った時、あなたはそれをもはや観察していない。観察が可能であるためには、あなたはその外側にいなければなりませんから。だから瞑想者がこの涅槃の状態にある時には、その人はもう涅槃を観察してはいないのです。それを観察することはできません」

良いモノに対しての強い執着。悪いモノに対して怒りが苦しみを生んでいる。だから、その執着や怒りという反応をしないように修行して、最後に完全に反応しなくなるところが絶対の平安になる。苦しみが完全に終わった絶対平安の世界が涅槃=ニッバーナ=ニルバーナである。

その状態に入る直前に、この状態に入ったらすべての苦しみから解放されることはわかる。でも、状態に入ってしまったら、もうそれを「観察」することは出来ない。眠りに入る前に「ああ、今から眠りに入るな」と分かり、眠りから覚めた後に「今まで眠っていたな」と分かるが、夢を見ないほどぐっすり寝ている時は、「今、自分は寝ているな」とは気づけないのと同じ。

これは人間を一重構造と捉えているかぎり、確かに観察することはできない。人間が一重構造だったら、観察する主体が止まっているのだから、論理的に考えても完璧にそうなる。

しかし「涅槃を観察することが出来る!」と、宣言された長老がいらっしゃった。パオセヤドーである。それは何を意味するのか?

我々が「涅槃の外側にいる」ということ。それは先発ピッチャーではなく、リリーフピッチャーとしての私。

二つの相容れない主張を、バハイ的にひとつのプロセスの展開として捉えていくと、人間は二重構造になっていると分かる。これは世界の普遍的な真理である。
呼吸も涅槃も、モンキーマインドの先発ピッチャーでは観ることができない。

まず最初に、涅槃が観察できない、ということをはっきり言ってもらうことで、涅槃が観察できる、ということの意味が、とんでもなく革命的であることがはっきりしたのだ。お互いに違っているものを、聖なるものの展開のプロセスとして観ていたならば、お互いに間違いではなく、すべて必要なものであることがわかる。

主張が違うからといって、お互いを敵とみなし、自分の教団の教義が一番だと主張したり、相手を見下したりすることは、大事な本質を見逃してしまうのだと分かります。違いはプロセスの展開の過程であり、お互いを補い合うものとみたならば、争うことなく、普遍的な真理に到達することができる。

涅槃を外側から観察していところに、本当の私が存在する。これは想像でも、概念でもなく端的な事実であり、実践のなかで、体験的に知ることができる。あらゆるものがスッキリとシンプルに整理されていきます。

http://www.onedhamma.com/?p=6481

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18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

http://www.onedhamma.com/?p=6471

私たちは誰もが「第四図の中の一人」にしか過ぎない。

だけど同時に「第五図の私」としてもこの世界の外に存在している。

第六図はその二重構造である自分をどうやって生きるかという話である。これは端的な事実である。

 

「1+1=2」というのは、世界中のどんな人にとっても、共通の事実であるように、

私とは何か、生きることと死ぬこと、そういうものこそ、1+1=2と全く同じレベルで扱い、

すべての人にあてはまらないといけない。一部の人、ある集団に所属する人にしかあてはまらないのならば、

それは真理とは言えないのである。

 

私が二重構造であることは、すべての人にあてはまる真理である。
しかし、このようなケースが存在している。
‘鷭店渋い箸い考え方そのものがない
二重構造を聞いていても実感できない。

,蓮∋実としてはそうなのだけれども、その人は、その事実を知らないために間違った生き方をしてしまう。

知らないばかりに無駄な生き方をして、事実に反するから苦しむのである。

しかし二重構造であることを分かった途端に、人生のすべてが変わってしまう。

生老病死の問題が解決されるのではなく、そもそも存在していないのだと分かる。

△脇鷭店渋い魍鞠阿箸靴討話里辰討い討癲△修譴鮗卒兇任ないから不安になる。

この二重構造をどう実感するかの鍵を握るのがマインドフルネス。

マインドフルネスは第四図から第五図への転換であり、二重構造そのものである。

マインドフルネスは第五図でしか成り立たない。

 

二重構造という教えがある伝統とない伝統がある。
あったとしても表現の仕方が違い複雑になっている。

例えば、「キリストの復活」や、「阿弥陀様に救われている私」、などとという表現で、二重構造が表現される。

それぞれの教団によってどう表現するかが違っているだけで、すべての人にとっての事実だと分かれば、

他の教団への偏見がなくなる。どっちが正しいか、という話をしていては事実を見落としてしまうのである。

 

テーダワーダは教えが一重構造であり、「主体が客体を観察している」しかないので、ある意味スッキリしている。

良いモノに対する執着、悪いモノに対する怒りというような、反応しなけれ苦しみを生まないから、

反応しないようにトレーニングしていく。心と体の反応がゼロの状態を最終目的地とするのである。

 

二重構造の大乗仏教のかたの一部は、マインドフルネスを疑っているひとがいるが、

それは、一重構造を疑っているのである。世間の一般的なマインドフルネスが一重構造になっているから、

その疑いは仕方ない面もある。

マインドフルネスと二重構造をつなげることにより、マインドフルネスが唯一の鍵である二重構造を理解できる。

‘鷭店渋い龍気┐あるが、それを実感する技法がない大乗仏教。
一重構造の教えで、マインドフルの技法があるテーダワーダ。

このどちらも救うことができるのである。

マインドフルネスを初めて実践して、今までに感じたことのないような安らぎを感じたりするビギナーズラックは確かに起こるが、この二重構造が分からない限り、次からはうまくいかなくなってしまうのである。

 

※※※※

山下先生があらゆる伝統を偏りのない目で見て、お互いを繋げることにより本質が明らかになり、

これはまさに正しく物事を見る「正見」そのものだと感じました。
一つの事実を、それぞれの伝統が、それぞれの表現の仕方で伝えているだけであり、

その表現方法の違うからといって争い合うという事がいかに無駄な争いかが分かります。

二重構造の世界観とワンダルマ・メソッドによって、教えだけではなく二重構造を実際に体感する事が出来、

人生を根底から変えることが出来ます。

 

二重構造とマインドフルネスを繋げることにより、伝統の宗教とマインドフルネスの混乱をスッキリと整理してくださいました。

二重構造が分からない、もしくは一重構造しか知らない、その混乱の中で苦しむ人たちの希望の光になると思います。

http://www.onedhamma.com/?p=6471

| 05:08 | comments(0) | - | pookmark |
18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

http://www.onedhamma.com/?p=6471

 

宗教の伝統とマインドフルネス、一重構造と二重構造との関係を大変わかりやすく整理して下さいました。

 

私たちは誰もが「第四図の中の一人」にしか過ぎない。だけど同時に「第五図の私」としてもこの世界の外に存在している。第六図はその二重構造である自分をどうやって生きるかという話である。これは端的な事実である。

「1+1=2」というのは、世界中のどんな人にとっても、共通の事実であるように、私とは何か、生きることと死ぬこと、そういうものこそ、1+1=2と全く同じレベルで扱い、すべての人にあてはまらないといけない。一部の人、ある集団に所属する人にしかあてはまらないのならば、それは真理とは言えないのである。

私が二重構造であることは、すべての人にあてはまる真理である。


しかし、このようなケースが存在している。
‘鷭店渋い箸い考え方そのものがない
二重構造を聞いていても実感できない。

,蓮∋実としてはそうなのだけれども、その人は、その事実を知らないために間違った生き方をしてしまう。知らないばかりに無駄な生き方をして、事実に反するから苦しむのである。しかし二重構造であることを分かった途端に、人生のすべてが変わってしまう。生老病死の問題が解決されるのではなく、そもそも存在していないのだと分かる。

△脇鷭店渋い魍鞠阿箸靴討話里辰討い討癲△修譴鮗卒兇任ないから不安になる。この二重構造をどう実感するかの鍵を握るのがマインドフルネス。

 

マインドフルネスは第四図から第五図への転換であり、二重構造そのものである。マインドフルネスは第五図でしか成り立たない。

二重構造という教えがある伝統とない伝統がある。
あったとしても表現の仕方が違い複雑になっている。例えば、「キリストの復活」や、「阿弥陀様に救われている私」、などとという表現で、二重構造が表現される。それぞれの教団によってどう表現するかが違っているだけで、すべての人にとっての事実だと分かれば、他の教団への偏見がなくなる。どっちが正しいか、という話をしていては事実を見落としてしまうのである。

テーダワーダは教えが一重構造であり、「主体が客体を観察している」しかないので、ある意味スッキリしている。良いモノに対する執着、悪いモノに対する怒りというような、反応しなけれ苦しみを生まないから、反応しないようにトレーニングしていく。心と体の反応がゼロの状態を最終目的地とするのである。

 

二重構造の大乗仏教のかたの一部は、マインドフルネスを疑っているひとがいるが、それは、一重構造を疑っているのである。世間の一般的なマインドフルネスが一重構造になっているから、その疑いは仕方ない面もある。

マインドフルネスと二重構造をつなげることにより、マインドフルネスが唯一の鍵である二重構造を理解できる。

‘鷭店渋い龍気┐あるが、それを実感する技法がない大乗仏教。
一重構造の教えで、マインドフルの技法があるテーダワーダ。

このどちらも救うことができるのである。

 

マインドフルネスを初めて実践して、今までに感じたことのないような安らぎを感じたりするビギナーズラックは確かに起こるが、この二重構造が分からない限り、次からはうまくいかなくなってしまうのである。

山下先生があらゆる伝統を偏りのない目で見て、お互いを繋げることにより本質が明らかになり、これはまさに正しく物事を見る「正見」そのものだと感じました。


一つの事実を、それぞれの伝統が、それぞれの表現の仕方で伝えているだけであり、その表現方法の違うからといって争い合うという事がいかに無駄な争いかが分かります。

二重構造の世界観とワンダルマ・メソッドによって、教えだけではなく二重構造を実際に体感する事が出来、人生を根底から変えることが出来ます。

 

二重構造とマインドフルネスを繋げることにより、伝統の宗教とマインドフルネスの混乱をスッキリと整理してくださいました。二重構造が分からない、もしくは一重構造しか知らない、その混乱の中で苦しむ人たちの希望の光になると思います。

素晴らしい法話をお聞かせ下さりありがとうございました

 

http://www.onedhamma.com/?p=6471

| 14:31 | comments(0) | - | pookmark |
18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

http://www.onedhamma.com/?p=6464

第四図と第五図は知的インフォメーションでもコンセプトでもない。
そういう考え方もあるよね、というものではなく、これで人生が救われる、このことをわかるために生まれてきたというほど重要なものと思えるか?
それは第四図にどれだけ絶望していたかによる。

子供時代の夢から覚めた14歳で世界に強烈な違和感を抱いたか?
第四図の世界が苦しみの世界そのもので、何かがおかしい、認識がおかしい、第四図の世界しかないと思わされているのは嘘ではないか。このあたりを直感できるかどうか。第四図しかないところで幸せを求めるのは最初から負け戦。
もちろんある程度は勝つことができるが、どんなに勝っていても最終的に負け戦になるのである。

大人たちが教えてきた世界のあり方に違和感を感じるのは、実は最初から第五図をわかっているからであり、それなのに、間違った第四図の世界観を押しつけられたために、抵抗することになる。でも、あまりにも世間が「第四図」一色で染まっているので、自分の直感の正しさに確信がもてずに苦しむ。

「第五図を真実とする」ということにおいて、仏教もヨーガもキリスト教も共通である。ヨーガも第五図を自覚するためのひとつのシステムであり、第五図でなかったら瞑想もヨーガも、仏教もキリスト教も成り立たない。第四図のままでは経典は矛盾ばかりで読みとくことができない。第五図がわかったら経典が、何の矛盾もなく読みとけて納得が行く。

仏教の僧侶やヨーガの指導者でも第四図しかない、という価値観の人が多く存在する。第四図しかないという人で構成された組織しかないのだったら、無所属でいる方がいい。間違ったところに所属するくらいなら、しないほうがいい。無所属をつらぬいた人たちが本当に所属できる場所は第五図なのである。

自分自身幼い頃から、大人たちの押しつけてくるものが受け入れられず抵抗し続けて来ました。第四図しかないという組織の中で苦しみ、激しく否定される事で、自分にとって何が大切なのかが分かりました。真理を探究することを押さえ込んでまで他の価値観を受け入れることができない。私自身もそのような体験をしました。

そのような狭間で苦しむ人、どこかにしまい込んだはずの「14歳の違和感」が時折り顔を出し、何かがおかしいと感じながら生きている人は多いのではないでしょうか。そのような人たちが第五図を思いだし、第五図が本当に所属できる場所だと分かったら素晴らしいことだと思います。

http://www.onedhamma.com/?p=6464

| 14:19 | comments(0) | - | pookmark |
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