18/05/04 「わたしがこの世界に所属していない」ことがすべての鍵だったのか | 山下良道師法話まとめ

18/05/04 「わたしがこの世界に所属していない」ことがすべての鍵だったのか

18/05/04 「わたしがこの世界に所属していない」ことがすべての鍵だったのか

http://www.onedhamma.com/?p=6605

 

「法話拝聴いたしました。最後の決め手になる事を発見し、これからのはっきりと行き先を示して下さいました。

今まで一法庵では、第五図、青空、リリーフピッチャー、などいろいろ表現してきたが、なかなか正確には理解されないこともあった。今回、イエス様の「私はこの世に所属しない」という言葉によって、誤解のしようがないほど正確に表現されたように思います。

たとえていうと、犯行現場には、指紋、足跡など、山ほどの証拠が残されている。動機も重要な要素。それをもとに、犯人は一体誰なのかを探ってゆく。真犯人はAさんだが、警察が現在捜査している犯人候補は、肝心のAさんではなく、BさんやCさんやDさんのみ。しかし、それらの犯人候補は、残された証拠との整合性がつかない。動機を論理的に説明することが出来ない。それに対して、真犯人のAさとは、すべてのものが一致する。今まで整合性がつかなかったことが、きれいに整合性がついてしまう。

 

我々の瞑想において、その真犯人とは、「所属しない」という話。第五図、二重構造、青空、が犯人ではないということではなく、まだ決定的ではなかった。誤解の余地が少しだけ残されていた。「所属しない」ということは、誤解の余地が入らない。マインドフルネスの説明として上げられる、「評価なしに観察する」という証拠と見事に整合する。

 

「マインドフルネスとは、評価なしに観察すること」。そういうことを我々は散々聴いてきたが、やはり最後のところで分かったようで分からず、マインドフルネスの本質が何なのかわからないでいた。新聞雑誌で紹介されるような、マインドフルネスの記事を読んでも、なんか肝心なところが抜けていて、最後のところに誤解の余地があった。マインドフルネスについて、どうしても完璧に納得できていなかった。そういう状況のなかで、「所属しない」ということがはっきりすると、最後のもやもやがきれいさっぱりなくなる。

第五図に対する誤解や、マインドフルネスに対する誤解を最後にぱっさり切れるのが「所属しない」ということである。

 

テーダワーダの瞑想は心の分析をアビダンマを通して学んだあと、実際の瞑想で確かめていく。心を観察し、心の知識を深めていく。これが当たり前になっている。しかし仏教の伝統があったとしても、それをやらない伝統がある。

たとえば、禅寺にゆき、坐禅についての説明を受けたとき、坐相についてが95パーセントくらいの時間が費やされて、残り5パーセントが心について少しだけ言われる。心については、心に浮かんだものを、すべて流していきなさい、ぐらいしかなく、量からいったら圧倒的に少ない。心についてタッチする必要がないから、わざと触れていない。

 

心の分析、観察することが、オーソドックスな仏教の基本線である。それに対して、禅は何をしているかというと、骨組みと筋肉で狙っていく、という考え方。そこには心は一切入れない。筋肉と骨組が出発点のはずなのに、そこで終わってしまう。身体の坐相を整えるだけで十分だ、坐相を整えればすべてOKだという世界観なのである。そこでは当然マインドフルネスは出てきようがない。マインドフルネスは観察することであり、観察すること自体が意味がないので、マインドフルネスに価値など感じない。

どうして、ここまで違ってしまったのか。

 

これは第五図の解釈が違っている。第四図は思いのぐちゃぐちゃの世界で、これが苦しみの原因、という点では同じである。しかし、第五図の坐禅をしているひとは、単に「身体」を現していると解釈している。第五図の身体は思いのぐちゃぐちゃから離れている。肉体は思いを手放しているから身体に帰ればいい。身体が坐禅を組むと御いのちを顕現している、となる。そこには、アビダルマもマインドフルネスも般若心経も入ってこない。仏教のいろいろなものと繋がらない。何よりも「所属していない」とは繋がらないのである。この解釈だと身体に所属している事になるから。思いからは出ているかもしれないが思いを切り取った物質的なものであり、そこには「所属していない」とは出てこない。

 

私たちは評価、好き嫌いなしに判断することは出来ない。私自身の心が好き嫌い、判断そのものだから。そういう心が呼吸を見続けるのは心の性質上無理なのである。こころは動き続けるので。

普段の心の在り方と、それとは全然別なものの二つがある。この二つのチェンジすることが、十字架の上の死と復活である。何かが死なないと何かが生まれてこない。

 

今までの私と、そうではない私。瞑想はこの転換である。
「第四図の私」と「第五図の私」が二重構造になっている。
第五図の私は誰なのか?

第四図の私が自分だと思ってきたけれど、マインドフルネスの主体は第五図。しかし、まだ最後のところがはっきりしないところがあった。

 

「私は所属していない」というイエス様の言葉により、はっきりとした。
第五図の私は第四図に所属していない、全然別次元の私である。
私は一方では第四図の中で形を持って生きている、同時に第五図の存在でもある。第五図の私は第四図に所属していない。第四図の形ある世界には存在していない、形ない存在。

イエス様は人の子であると同時に神の子である。
イエス様は二つの次元をごっちゃにすることはなかった。


ごっちゃにするということは、そこから逃げること。十字架上から逃げずにそのまま殺された。イエス様は完全に人の子であった。そして3日後に復活した。それは神の子であったから。神の子であるイエスはこの世界に所属してない、だから殺されてもかまわない。第四図でどんなひどいことが自分に起こってもそこには所属していないからかまわない。第四図の中で奇跡を求めてしまうのは、第四図に所属していないということを納得していないからである。

好き嫌い評価なしに観察するということがマインドフルネスの定義。これを本気でやるならば、この世界に所属してないと納得しない限り出来ない。評価なし、好き嫌いないに観察するとは神の眼である。それを仏陀が言われたのはあなたは神の子だ、神の眼に立て、ということである。

 

マインドフルネスは第四図に所属している限りは出来ない。とんでもない話だが、それをしろとお釈迦様が言われたのは、あなたはこの世に所属してない、そういう自分を自覚しなさい、ということ。

「この世界に所属していない」ということが真犯人である。そうすると、マインドフルネスやヴィパッサナーが残した証拠とすべて整合性がつく。「マインドフルネス」、「評価なし好き嫌いなしに観察する」ということと「この世に所属していない」ということが同じ事を言っていることが分かる。

 

ヴィパッサナーでサンカーラを浄化するとはどういう事だったのか。
マインドフルネスをするということは、この世界に所属していないということを自覚すること。そこに立つことで初めて本当の観察が出来る。汚れのないところに立って、汚れのある心を観る。そしてこの汚れは幻想だと分かる。本当の私はこの世界には所属してない。これがサンカーラを浄化するという意味。

 

本当にマインドフルになったときに、この世に存在していないということを経験できる。第五図を本当に理解するためには、マインドフルネスを経験しないと無理なのである。

第五図の本質は「所属していない」である。第五図で坐禅している人は形があるものではない。はじめに身体に帰って、微細な身体に変わり、慈悲(アガペー)を通って、この所属していない何かになっていく。イエスキリストは崇拝の対象ではなく、向かうべき対象なのである。これですっきりと整合性がつく。

 

イエス様が「私はこの世に所属していない」という言葉と内山老師の第四図、第五図、マインドフルネスが繋がり、本当に感動しています。真理というのは宗教を超えたところにあるのだということがよく分かります。

そして、イエス様のそのお言葉、お釈迦様の残されたサティを理解するために、分からなさを抱えながら、何千年もの時間をかけてその事を考えてきた。そして、その謎がついにスッキリと誤解の余地なく解けた。仏教とキリスト教、二つが合わさることによって。

今までの膨大な蓄積がようやく花開いた瞬間を見たような気がして嬉しいです。真理を探究していくことの楽しさを日々感じて、ワクワクしています。これからの行き先もはっきりとして、ますます、この光の中のこの旅が楽しくなってきました。今後ともご指導をよろしくお願いいたします

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| 22:05 | comments(0) | - | pookmark |
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