『私たちはどこへ向かうのか?』 柳田敏洋神父の講話  | 山下良道師法話まとめ

『私たちはどこへ向かうのか?』 柳田敏洋神父の講話 

『私たちはどこへ向かうのか?』 柳田敏洋神父の講話 

2018(平成30)年 青空の黙想リトリート in 上石神井黙想の家 柳田敏洋神父の講話を文字起こししたものです。

 

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はじめに

 

昨年の4月に、良道さんと言うふうに呼ばせて頂きますけども、良道さんと松田神父様の、ここでの1泊2日のリトリートがありました。その時初めて直接に良道さんとお会いして、お話しすることができました。私もインドでヴィパッサナー瞑想を体験した後、自分なりにキリスト教の枠の中で「キリスト教的ヴィッパサナー瞑想」と勝手に自分で名前を付けて、ヴィパッサナー瞑想を行っていました。

 

そういう背景から良道さんとお話をしていると、結構馬が合うというのですか、気が合うというのですか、同じ問題に直面して、どうこれに立ち向かっていったらいいのか、どう乗り越えて行ったらいいのか、こういう問題意識、方向性が重なっているのを感じました。それ以来、メールの遣り取りを含めて、かなり密な関係が出て来たかなと思います。

 

その一つの結実が、この中にもご参加下さった方があるかと思いますが、2月3日に新宿の朝日カルチャーセンターで行った、良道さんとの対談です。沢山の方が詰めかけて下さって、非常に実りの多い対談になったのではないかと思います。

そういう形を受けて、今回また4月に青空リトリートがここで行われることになったのですが、今回はもう少し日数を増やしてより本格的にしようということになりました。

 

それが、今私たちが行っているリトリートですが、まあそれは私達がすでに良道さんが行っておられる「二重構造に目覚めて、エゴの私を見つめているもう一人の私に目覚めて、現実世界が映画の世界であることを見抜いて行く」

こういうために取り組んでいるのだということですね。

 

私は以前から、エゴの私が、祈っても、祈っても、結局エゴに留まっている限りは、エゴの世界を突破した祈りの世界に入れない。こういうことを非常に強く感じていました。そして、言葉遣いが違うとか、アプローチの仕方が違うとか、解き明かすための見取り図が違うとか、そういうところがあっても、良道さんと丁寧に話していくと、中身としては「本当に重なるところが多いなあ」ということを感じました。

 

 

そこで、今からの時間は、私なりに「私たちはどこへ向かうのか」というテーマでお話することが出来たらと思います。どこまでまとまりのある話になるか分からないのですが、一応、このテーマでお話をしていきたいと思います。

 

そこで良道さんの法話の中で、たびたび「謎のX」という言葉が出ていますが、私達にとって「『謎のX』とは一体何か。」 それはキリスト教の中でも大きなものだと思います。私たちはさしあたってキリスト教の枠の中で、それを神とかキリストとか呼んでいます。私はキリスト教のカトリックの神父ですから、そのような立場から「謎のX」に向かって自分なりの歩みを続けていく。そのような取り組みの中で、私なりに気づけたことをお話していきたいと思います。あまり一概に仏教とキリスト教というふうに言うと、良道さんにまた叱られるかも分からないのですが、一応私はキリスト教の枠の中でお話していきたいと思います。

 

私たちの向かうべき神はアガペである

 

キリスト教の人は日本では少ないんですが、世界全体を見たら非常に多い。そして、やっぱり多くの人たちが、映画世界とかあるいは劇場世界の中でキリスト教を生きている。それは非常に残念なことではないか、そういったことを強く感じています。

 

そこで、方向性と言いますか、キリスト教が何を目指すのか、どこに向かおうとしているのか、そういったところを含めてマインドフルネス瞑想を、どんなふうに私達が取り組んでいったらいいのかについてお話が出来たらと思います。

 

仏教とキリスト教という観点で言うと、ある意味でキリスト教は方向性が非常にはっきりしている。これは相対的なものだとは思いますが、そう言えると思います。それはご存じのように、神を信じていて、またその神は、父・子・聖霊という三位一体の神です。特別な神をキリスト教は信じている。そこに非常に大きな枠があるということですね。

 

私たちは、本当に一言で言うならば、「私達の人生は神に向かう人生だ」と言えます。じゃあその「向かうべき神とは一体何ですか。どのような存在ですか」ということについては、今、手元に聖書を持ってきていますけれども、聖書の中の新約聖書のヨハネの第一の手紙の4章16節に「神は愛である」と書いてあります。

 

ギリシャ語が原文ですが、そのギリシャ語では、「神はアガペである」という言い方です。つまり、キリスト教徒にとって神という言い方はいろいろありますが、最終的に「イエス・キリストが伝えようとした神とはアガペである」こういうところにキリスト教の神は基づいています。

 

じゃあ、「アガペとは何ですか」と言うと、皆さんもアガペという言葉をどこかでお聞きになったことがおありと思いますが、ギリシャ語で愛を表す言葉です。ギリシア語で愛を表すのに、大まかには4つあると言われています。

 

皆さんが一番よく聞かれるのは、エロスという、性愛と訳されたりするものです。何か「自分がフィーリングで好ましいと思うものに魅力を感じてひかれていく」こういう愛ですね。それをエロスとギリシャ語で言います。

 

次に、友愛と訳されますが、同じ価値観を共有する者同士の深い結びつき、これはフィリアという言葉で表します。

そして、さらにはお母さんの子供に対する深い愛情、これを表す言葉にストルゲーという言葉があります。

 

こういったエロスとかフィリアとかストルゲーとか、愛を表す言葉がある中で、アガペという愛を表す言葉がある。そして、このアガペというのは、簡単に日本語で言うなら、無償無条件の存在の受容ということです。私達は「愛」というふうに言うと、日本語では、やはり自然に、私にとって好ましく魅力的な、というような、そういうニュアンスがあります。

そこでギリシャ語のアガペを日本語に訳すときに聖書の専門家が「愛」という日本語を当ててしまったので、「愛」としか言いようがないのですが、実際のこのギリシャ語のアガペというのは、やはり日本語の「愛」とはちょっと違うということです。

 

全く無償無条件にその存在を受容する、あるいは肯定する。例えばその典型を、「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に見ることができます。だけど、もともと敵というのは嫌な、嫌いな人、フィーリングで好かない人ということですから、それを「あなたの敵を愛しなさい」というような、日本語に訳しちゃうと、もう凄く人間性を捻じ曲げるような、つまり、無理矢理に好きでもない人を好きであるかのように振る舞うという、自分を捻じ曲げないとできないということになってしまいます。

 

こういうところに、「経典を、どうふさわしい言葉に訳すか」といういつも起こる問題があります。ですから、私は最近言葉としても割と知られてきているので、アガペというギリシャ語をそのまま使う方がずっと誤解がないと思っていて、そのように使っています。

 

そこで、アガペという言葉で、イエスは神の愛を示すのですが、例えば、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)こういう言葉で、天の父・神とはどういうお方かということを説明します。

 

イエスが生きたのは、今から2000年前のパレスチナ地方で、その当時はユダヤ教です。そして、ユダヤ教はどちらかというと、因果応報の神です。神との間で人間が契約を交わすということが旧約聖書の歴史にあります。その神との間に人間が交わした契約を出来るだけ忠実に守る人には沢山のご褒美が与えられるということです。

 

例えば聖書にはですね、「忠実な義人たちは、何百歳も生きた」とか、あるいは、「子宝に恵まれる」とか、あるいは「自分が持っている土地が豊作である」とか、「飼っている家畜がどんどん子を増やしていく」とか、それが神に忠実な見える印です。だから逆に(忠実ではない人は)子供が産めない奥さんとか、あるいは早死にする人は神に呪われているという理解があった、ということです。

こういう点は、やはり歴史の中で表れてきた神理解、と見ていく必要があるかと思います。このどちらかというと因果応報の神を信じているユダヤ教の只中に生まれ育ったイエスは、「神とは無償無条件の愛のお方である」ということを非常に具体的な言葉や振る舞いで伝えています。その中で言われた言葉が「敵をもアガペしなさい」ということです。

 

つまりどのような敵であったとしても、その敵の存在を無条件に受容しなさい、肯定しなさい。好きとか嫌いとかそういうレベルの事ではないということですね。こういったところにイエスは真の神のあり方を見て、私達に伝えようとした。つまり通常なら、信仰を持って一生懸命頑張る人に対して神様が沢山の恵みを与える、それは基本的に頑張る人が報われるというような社会通念だったら、それはそれで非常に公平な神様ということになるのですが、そのような私たち人間世界での公平とかを超える神をイエスは伝えようとした、ということです。

 

それが、神はアガペであるということ。神は無償無条件の存在の肯定という恵みを、その人が善人であろうと悪人であろうと、全く関係なく与えられるということです。ですから、取引の神ではないということです。ここは非常に大事なところです。「あなたのような神を信じます」というふうに私達が神を信じたら、「よしよしお前はよろしい。私の無償無条件の愛をあげよう」という取引をするような神ではない。信じようと信じまいと、神を呪おうと、神なんているはずがないと思う人にも,神のアガペ、無償無条件の存在の受容が与えられているということですね。

 

ですから、「この神を信じる」というのは、私が信じようと信じまいと、その前から私がこの世に生まれ落ちた時からこの恵みは、すでに私と共にあったということを発見するということで、これが信じるということです。「信じてナンボ」ということではありませんし、これは非常にエゴの宗教観の中で出てくる信仰理解と言っていいと思います。

 

そういう中で、私たちは丁寧に、丁寧に、イエスが伝えようとした真の神とその神の恵みについて目覚めていくことが大切になってきます。

 

そして、私は今から11年前にインドでゴエンカ式の10日間のヴィッパサナー瞑想に与って、本当に瞑想のすばらしさを体験しました。そうしてこれは、私達キリスト教を信じている者にとっても、信仰を本物にしていくための非常に優れた修行、瞑想法だということを感じました。それで、私なりにキリスト教の要素をいろいろ付け加えたりして、今この修道院で、「キリスト教的ヴィッパサナー瞑想」と呼んで皆さんに紹介しています。

 

神の似姿として造られた人間とエゴの問題

 

さて、神の次にもう一つ大切なのは、「私たち人間とは何者か」について聖書はどう言っているかということです。一法庵関係の皆さんも大体はご存知の方が多いのはないかと思いますが、創世記の最初に天地創造の話があって、その最後に神様が人間をお造りになるという話があります。その中で、神が「我々にかたどり、われわれに似せて、人を造ろう」(1章26節)とおっしゃって、そして土の塵を人の形にして、そしてその人の形の鼻に息を吹き入れると、アダム、最初の人間になった、という出来事があります。

 

つまり、私たち人間とは、元々神の似姿として造られた、神に似たものとして人間は造られている、これがキリスト教の人間理解です。ですから、私達がどこに向かっていくのかを見ようとするならば、それは私達が元々神の似姿として造られた一人一人であることを知って、そして、神の似姿として造られた自分自身を完成に向けて自分を鍛えていく、成長させていく、歩ませていく、こういうことが分かってくるんですね。

 

じゃあ、その「神の似姿の完成というのは何ですか?」ということが出てきます。「神はアガペである・神は無償無条件の存在肯定のお方である」とみていくならば、この神の似姿をどう解釈するかが問題になってきます。この解釈はいろいろあるんですが、私はやはりヨハネの第一の手紙の4章16節に書かれているところを、とても大切にしたいと思っています。

 

「神とはアガペである。」 ですから、神の似姿として造られた私達は、アガペの似姿として造られているということ。つまり、私達は最終的にアガペを本当の意味で生きる人間になっていくようにと、最初から神によって造られている。一人一人はその可能性を秘めているということですね。

 

でも、ここに現実が立ちはだかっています。つまり、もうすでに私達は、何度も良道さんを通じて聞かされていて、私たち自身も感じていることですが、どれほど「アガペの愛を生きましょう」と教会の中で言われても、そのアガペを生きることが出来ない。どれだけ人に親切にしても、「私はこんなに一生懸命あの人の為にやっているのに無視されている。なんてひどい人!」というように、相手を無意識の内に評価したり裁いたりしているのです。

 

つまり、本人は無償無条件の愛で誠実に相手に関わっているつもりが、その奥では条件付きの愛を生きているということですね。

 

「こんなに頑張っている私をもっと分かって欲しい」という心、つまり私たちの中にはどんなにいいことをしていたとしても、どんなに親切にしていたとしても、どこかで気づかない形で、見返りを求めるとか、感謝を求めるとか、条件付きにしてしまっているのです。「こんなに私がしてあげているのだから、貴方もちゃんとしてね」という裏のメッセージを込めて相手に親切にするとか、こういったことが、やはり私たちの中に、キリストを信じている者に日常茶飯事のようにあります。

 

つまり、私達にとって、無償無条件の存在肯定というアガペを生きるのを阻んでいるのはエゴだ、ということです。これはえらく厄介なものなんです。全く簡単ではない。それはもう良道さんがおっしゃている通りだと思います。では、どこに問題があるかというと、もうついつい条件付きで「無償無条件の愛」を生きてしまう自分です。ここに何とかしないといけない問題がある。

 

じゃあこの条件付きについついなってしまう私をもっと整えよう、条件なしに生きられる私に、条件なしに無償で愛を生きられる私にならなければと、力づくでやってしまうとどういうことになるかというと、「こんなに見返りや条件付きが求められる状況の中でも、私は無条件で愛を生きられる私だ」という、また新しいエゴが無意識の内に出てきてしまいます。これは無限に続きます。

 

つまり、一生懸命に立派になればなるほど、「立派に生きられている私だ」という、周りと自分を比べるエゴが無意識の世界から出てきます。

 

ここにものすごく大きな問題があるということですね。イエスは、こんなふうに神が一人一人を無条件に愛して下さっているのだから、あなたがたもその神の愛に応えて、隣人を自分のように愛しなさい。こう言って、これが多くの掟の中で、「神を愛する」ことに次いで最も重要な掟であるとイエスは私達に聖書を通して教えてくれました。

 

でも、結局そこにいつも問題がある。「隣人を自分のように愛しなさい」という愛はアガペの愛ということなんですが、それを一番阻んでいるのが私のエゴだということですね。このエゴを、本当に、繰り返し、繰り返し、いくら頑張っても突破することが出来ない厄介なエゴの問題として悩んでいました。そのような時、11年前にインドに行って、ゴエンカさんの10日間のヴィッパサナー瞑想に与ったことが、その突破のきっかけになったということです。

 

10日間のヴィパッサナー瞑想とエゴの突破体験

 

今回も、この青空リトリートが初めての方は、「結構もう疲れる」「しんどい」「足が痛くてたまらないのに、まだどれだけ我慢しなければいけないの」とか、そういう思いを持っておられる方があるかと思います。

 

私も11年前にインドで初めてこの10日間の体験をした時に、同じように感じました。わざわざ高い航空運賃払って来たのに、こんな所でくじけちゃ元も子もないという打算的な思いもあったので、最初はどうするかというと、頑張る、我慢する、我慢する、耐える、耐える、耐えぬくという事でした。チーンという鐘が鳴るのが待ち遠しくてたまらない。それで何とか乗り切っていくのです。でも良道さんがヴィパッサナ―瞑想・マインドフルネス瞑想のポイントとしてお話し下さっているように、インドで与った時にも常にどのような痛みが来ても「観察せよ」「観察せよ」「observe」「observe」。そういう言葉をアドバイスとして、何度も受けました。

 

我慢というのは、痛くて苦しくてたまらないという事ですよね。やはり、ここにまたエゴのからくりがあると思います。エゴは好ましいものを自分に引き寄せて、それと一つになって、うっとりとした満足感にひたりたい。でも、好ましくないもの厄介なものは常に避けて自分から遠ざけようとします。

 

長く座っていると痛みが湧いてきて、その痛みはとんでもない苦しみを私に与えることになります。そのようにイタイ!イタイ!という感じになってくると、痛みというネガティブな感覚と自分をひとつにしてしまいます。ここにエゴの本質があります。エゴというのは、同化、何かとついつい自分を一つにしてしまう、英語でassimilationといったりしますが、ここに私たちの厄介なエゴの本質があるということです。 

つまり、本当は自分ではないものと自分が無意識の内に一つになることで、それを私だと思いこんでしまう。ですから、うっとりとするようないいものがあったら、例えば「本当に待ち遠しくてたまらなかったルイヴィトンの春物バッグを手に入れた〜〜」こういうふうな恍惚感。 別にルイヴィトンのバッグは私ではないんですけれど、手に入れた私は、このルイヴィトンの春物最新流行のバッグを私の存在の一部のように心理的に感じてしまい、うっとりするということです。けれども、それは全く一時的な儚いものだということですね。

 

まあ、ポジティブな方はまだいいのかもしれないんですが、ネガティブなものは凄く厄介だということですね。その一つが痛みと言っていいと思うのですが、そういったものとついついエゴは一つになってしまう。それが大変だということになると、エゴは力づくでそれをやっつけようとする。もしその大変なものが避けることが出来ないものだったら、我慢するとか、別の事を考えてふたをするとか、という形になります。でも結局、痛い厄介なものは、「痛い厄介なもの」として残ったままですから、いつまでたっても真の問題は解決されないということです。

 

それに対して観察しなさい、観察しなさい。つまり、ついつい巻き込まれそうになるけれども、出来るだけ心を穏やかにして、痛みと感じられる感覚を現象として見つめなさいが、ヴィパッサナーです。

 

こういうアドバイスがあって、勿論そんな簡単には出来ないんですけど、私の場合は、6日目だったんですが、結構激しい足の痛みがあるのに、ふと気がつくと、心が巻き込まれずに、心臓もバクバクしたりせずに、全く穏やかな心で、自分の痛みを見つめている、こういう境地を体験しました。

 

その時に感じたのが、「私の意識というのはこんなにも自由なのか」ということです。それまでは兎に角、我慢、我慢、早く鐘が鳴らないか、そればっかりを考えるとか、この痛みがもっと強くなっていったらどうしようとか、足がやられて立てなくなればどうしようとか、兎に角ネガティブな発想がどんどん膨らんで、それが私の痛みをまた心理的に大きくするという、こういったカラクリだったことが後で分かりました。6日目の午後の体験、足に、自分の身体の一部である足に、実際の身体的な痛みがあるのに、心は穏やかにそれを見つめている、こういう境地ですね。

 

ですから、こういう体験をして、本当の私の意識というのは、実はもっと自由なんだということを知るようになりました。これが私にとって乗り越えるきっかけになったと思います。つまり、今まではエゴが私だと思っていたけれど、エゴではないもう一人の私がいるんだという気づきですね。つまり、もう一人の私というのは、痛い、痛い大変だ、何とかしなければ、早く終わらないかな、どんなふうにして我慢できるだろうかとか、右往左往しているエゴから離れて、静かに、右往左往しているエゴと身体的な強い痛みを見つめている。そういう意識が確かに現れる、ということですね。そして、そこにこそ本当のこの私があるんじゃないかということですね。これを私なりに、「根源意識」という名前で、今は呼んでいます。

 

つまり、この根源意識は、勝手に私が名づけでいるものですけれど、あらゆるものに対して巻き込まれない心で、穏やかに現象を見つめられる意識。感覚にしても、感情にしても、あるいは、思考にしてもあるがままに見つめることのできる意識ということです。

 

私たちが巻き込まれやすいものの一つはネガティブな感情だと思います。誰かの一言で、カチンと来て怒りが湧いてくるという時に、ついつい私たちはエゴの傾向性だったら、怒りと自分をひとつとして、怒りの雲に自分が飲み込まれて、怒りの中に自分を見失ってしまう。こういったことが時々あります。いわゆる、切れるということですね。そうなると、怒りの雲が大きくなって爆発しちゃう。大変な事を起こしてしまうということですね。

 

それに対して、怒りの雲から離れて、それを静かに心の青空から見る。これが良道さんの「本当の私は青空だ」というところと繋がってくると思います。相手の一言で怒りが湧いてきてる、あるいは、考えにしても「あの人は私を見下している」とか、何か相手に対してレッテルを貼って、そのレッテルが強いものになると、相手は私を見下しているという考えが、私のアイデンティティの一部になってしまいます。

 

これは、もう恐ろしいことですね。どんなに相手が優しい言葉をかけてきても、「何か裏があるに違いない」とか、常にネガティブなフィルターを通した解釈しか出来なくなってしまいます。これがまた苦しみを生むということになります。

それに対して、痛みの場合と同じように、相手の一言で「今、怒りが私の心に沸いてきている」と気づく、相手の言ったことに対して「『あの人は私を見下している』と今思った」というふうに気づくのです。

 

そして、「価値観を入れないで」ということですから、怒りを「裁かない」「やっつけようとしない」「厄介なものだというネガティブな判断も持ち込まない」相手にレッテルを貼る考えに対しても、同様です。こういうふうに見ていると、「あ、これはイエスが言っているアガペ、存在の無条件の肯定と全く同じだ」と気づきました。

つまり、私の心に沸いてくる怒りに対しても、あるいは、相手を決めつけるネガティブなレッテル貼りの考えに対しても、エゴがそれを取り除こうと今まではしていた。でもそうではない。イエスが教えているアガペとは、どんなにネガティブなものが私の心に現れてきても、あるがままの存在、心に表れた存在の一つとして、それを認めその存在を受けとめていくということ。ここに、イエスが教えるアガペの「本当の大切な中味」があるということに、だんだんと気づき始めました。

 

アガペである根源意識の場が本当の私

 

そのようにあらゆるネガティブな心の状態をも、あるがままに巻き込まれない形で気づいて、その存在を認めていくという在り方がアガペであって、そのような気づきが出来るところにこそ、本当の私があるということがだんだんと分かってきました。

 

このような無償無条件の気づきの営みを根源意識と名づけているのですが、この根源意識の場こそ本当の私の場だ。ヴィパッサナー瞑想とはこの根源意識と名付けた場に目覚めて、そこに本当の自分を見出していく、このような営みではないかと感じるようになりました。

 

また私にとって非常に大切なのは、これが神とどう関係するかということですね。聖書の中にもいろいろありますが、いわゆるキリスト教の神様とは天におられるとか、例えばキリスト教についての子ども向きの絵本だったら、神様は「雲の上から白いひげを生やしたおじいさんが地上を眺めている姿」などに描かれています。 そういう外なる神とかがイメージしやすいのですが、本当は、そうではない。例えばパウロという人は、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」(汽灰螢鵐6章19節)と言って、神が私達の内に住まわれることを述べています。

 

あるいは、イエスの教えや生涯について書き記した福音書というのが四つあるのですが、その中の一つの「ヨハネ福音書」では、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(14章23節)とイエスが語るなど、非常に深い言葉があります。

 

つまり、神とは私の中に住まわれる神です。そして、特にキリスト教では聖霊の働きが人間とのかかわりで強調されるんですが、この内なる聖霊の働きが、私の意識の根源に及んでいるから、私は自分の気づきとして自分の心に沸いてくるネガティブな感覚や感情や思考を全くあるがままに、一切価値判断を入れず、裁いたりせずに、存在肯定し、存在を受けとめていくことができるということです。

 

キリスト教の中で非常に大きな問題に、「人間の自由と神の恵みをどう調和させるか」ということがあるんですが、ここでは、それが全くすんなりとストーンと落ちるということです。つまり、私が確かに私の力によって自分で気づいている。でも同時にそれは私の意識の根源に働く、聖霊という愛の神の働きに協力する形での私の営みだということです。

 

これは、何でもかんでも自力でこの世の問題を解決していこうとする人間万能主義でもないし、あらゆるものを全く神に丸投げする「もう私には何もできません。貴方だけが頼りです」という丸投げ型、神頼み型でもありません。両方ともやっぱりおかしな事です。

 

ヴィパッサナーの気づきには、非常に深い神秘的と言えるかも分かりませんが、人間の神に対する協力ということがあり、その中に本当の宗教心があると思います。

 

これはキリスト教の枠の中でということになりますが、ヴィッパサナーをしている時の私を、このように営ませてくれているのは、神の恵みの働きが確かに私の意識の根底に働いているからである、とこう理解をすることが出来る。そして、ここにこそ神との出会いに開かれた場があり、そこにこそ本当の私の場があるということです。

 

つまり、この瞑想が、キリスト教にとっても素晴らしいなあと思うのは、やはりキリスト教の人もエゴの中で彷徨いながら本当の私を求めているのですが、真の私とは、私が神と出会う場にある。そしてそれは正に無償無条件の存在肯定というイエスが示したアガペを生きる場にある。本当の私を見出す場、アガペを生きる場、神と出会う場が全部重なってくるんですね。ここは、とても大切な点だと思います。

 

既にアガペを生きている身体


 

そこで、それを教えてくれるのが、身体なんですね。で、これ本当にヴィッパサナーの素晴らしいところです。禅もそうだと思いますが、東洋の瞑想というのは、身体を大切にします。身体から瞑想に入っていきます。

 

キリスト教の伝統に、身体を考えないことが無いことは無いんですが、基本的なパターンは心と知性で祈り神に向かうということです。そういうパターンでは身体は二の次ですね。歴史的に見るならば、皆さんも聞かれた事があるかと思いますが、ギリシャ哲学を始めた人と言われているプラトンの影響です。

 

プラトンは「肉体は魂の牢獄である」と言って、人間の救済とは「その魂が牢獄になっている肉体から解放されることだ」と考えて、これがキリスト教の教えの中にも相当浸透しました。ですからやはりキリスト教の中にですね、身体は二の次ですとか、肉欲とかいう言う方があったりするんですよ。本当は心と頭の問題であるのに、あたかも身体自身が勝手に欲するとか欲望を持つとか、そういうふうなイメージがキリスト教の人間観の中に植え付けられたところがあります。

 

でも、そうではない、全くの逆です。一切身体には欲がないということですね。これも瞑想を通して学んでいきました。実はヴィッパサナー瞑想に出会う前にインドでヨーガに出会って、ヨーガの素晴らしさを私は感じるようになったんです。身体の素晴らしさに開眼することが出来たということです。

 

つまり、キリスト教の枠の中で見ていくと、頭と心が求めてやまない神を既に身体は発見し神と響き合って生きているということです。この「神と響き合っている」という現実を「神の国」とキリスト教で言いますが、身体は既に「神の国」を生きているという事ですね。

 

つまり、身体の一つ一つの部分はアガペを生きている。「無償無条件の愛」「無償無条件の存在肯定を生きている」こんなふうに言うことが出来るのではないかということです。例えば、心臓。心臓は血液を体中に送り込むというポンプの役割を果たしますが、それを通して酸素というエネルギーを身体の隅々にまで送ります。それで私が生きられるということですよね。でも、心臓は全くそれを無償無条件で行っているということです。心臓は私達がこの世に生まれ落ちた時から働き続けています。

 

私達は、今晩瞑想した後、部屋で寝ると思いますけど、心臓は寝ません。心臓が「私も休ませてもらいます」と言ったら、目覚めは無しということですよね。私たちが疲れて休んでいる時にも、心臓は働いている、働いている、働いている。つまり、この世にさよならを言う時まで働き続ける。

 

でも、こんなにずっと私が生まれ落ちてから働き続けている心臓ですが、じゃあ、「はい、貴方一年にこれだけ血液を送ったからリッターいくらで請求します」とか、そういったことを心臓は要求しません。あるいは、「こんなに頑張っている私にせめて感謝の一言ぐらい言って欲しい」というようなことも一切言いません。あるいは、全く無条件というのは、「こんな酷い人じゃなくてもっと立派な人の心臓になりたかった」とかの選り好みを心臓はしないということです。

 

その人がどんなにエゴにまみれている人であろうと、どんなに立派な人であろうと、その人を無条件に受けとめて、その人を生かそう、生かそうとする。このアガペの愛のシンボルである心臓の素晴らしさに、だんだんと気づくようになりました。

 

そしてまた気づいたのが、真の愛は自らを隠すということです。つまり、正常であって調子が良ければよいほど、その姿、心臓の働きに私たちは気づかない。その営みに気づかない。問題が起こった時にだけ気づくんです。病気とか、何かの欠陥とか。

 

それは心臓だけではなく、あらゆる部分について言うことが出来ます。肺・胃・腸・肝臓・腎臓、あるいは筋肉。あらゆるものがアガペなんです。それぞれが無償無条件の愛を生きている。そして、それが正常であればある程、自らを隠すということです。

例えば、イエスは偽善者の施しについて批判をしながら、「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6章3節)とこんな言葉を言っています。右手のすることを左手も知らないというのは、全く自らを隠すということで、つまり、「わたくし」が無いんです。真のアガペには「わたくし」がありません。そして、丁寧に見ていくならば、心臓に「わたくし」はありません。肺にも「わたくし」はありません。これが私達の身体です。

そして、さらにこのような心臓や肺、そして胃や腸、あるいは筋肉を構成しているものはいわゆる細胞ですね。今から5年前に人間の大人の細胞がどれくらいかというのが、かなり正確に推測できるようになりました。それによれば、私達一人一人は約37兆の細胞を持っているということです。そしてその殆どは、一年間で入れ替わるということです。

 

また、皆さんご存知のように、一つ一つの細胞は、DNAという私たち一人一人の設計図、遺伝子の設計図を全部持っています。でも例えば、私の人差し指のこの細胞が新しい細胞に入れ替わる時に、その人差し指のところとしてだけ働く。あるいは、目の細胞が入れ替わる時にも、目の働きの部分だけが表れてくる。それ以外は一切表われない。つまり、表れる部分に対して、全く自分を調和させて働いて、そして、働き終わると、全く人知れず気づかれず、自ら退いていく。

 

無の内に表れて、ふさわしい役目を果たし、無の内に退く。誰も何も気がつかないうちに。これこそアガペです。

 

ですから、だんだんと分かってくるのは、本当の愛を生きている人は知られない。隠れているんです。知られることを望むというのは、もう既にエゴがあるということで、無理があります。真のアガペを生きるときには、知られる、知られないは何の関係もなく、何の関心もない。ここに私たちは召されています。アガペの人になるというのは、そういうふうにですね、全く自分というものを無にして、そしてふさわしい働きをしていく。こういうところにアガペがある。そして、正に根源意識を見ていったら、こういう働きをする場が根源意識と名付けられているところではないか。そして、ここに私たちにとって本当に大切な真の私の場があると、見ていくことができるのではないかということです。

 

そこで、またキリスト教の話ばかりになりますが、こういう私たちが神の似姿として造られて、その似姿とは、神のアガペである。では、アガペに似たものとしてアガペを生きるということであるならば、私達の人間としての完成は、アガペの人になること、つまり、掛け値なしに無償無条件の愛を生きる人になっていく。無償無条件の存在肯定を生きる人になっていくこと、ここに人間の完成があります。

 

アガペの究極を示したイエス・キリスト

 

では、「それを誰が出来ているんですか?」「それは、イエス・キリストです」とこう私たちは信じています。そして、イエス・キリストの中に、神の似姿の完成された人を見て、そしてその人を手本にして、私達も歩んでいこうということです。

 

では、「このアガペの究極って何ですか」という問いもあります。私達キリスト教は今年3月の末と4月の初めに、キリスト教の暦で一番大切なイースターの週間を迎えました。この聖堂にも十字架がかかっていますが、イエス・キリストの十字架上の死、その死と三日後のよみがえり、これをキリスト教の一番大きな出来事として、私達は今年も祝いました。

 

つまりそれに何を見ていくのか。いわゆるこの十字架というのは、ローマがその当時編み出した見せしめ刑ですね。政治犯にだけ適応された処罰であって、出来るだけ苦しみが長く続くように考えられたものです。つまり両手足に釘を打ちこんで、そしてその十字架に磔にすることで、直ぐには死なないのです。苦しみが長く、長く続く。「ローマに逆らうと、こんな酷い苦しみをお前たちは受けることになるんだぞ」という見せしめ刑ですね。ですから、私達が普通に見た時は、まあ特に日本人には十字架のキリストがなかなか馴染めないところがあるのは、残酷さそのものを見える形で表すというものだからだと思います。でも、キリスト教はこれをアガペの愛のシンボルとして、見ていきます。

 

つまり、イエスはヨハネ福音書の15章で言っておられるのですが、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きなアガペはない」(13節)。ですから、相手の必要に応えて無償無条件の愛、それも勿論アガペなんですが、最終的に最も大きなものは、そのアガペのために惜しみなく自分の命を差し出していく、というところにある。これを私達キリスト教は、この十字架のイエスの中に見ていくのです。ですから、十字架のイエスは、あのような残酷な殺され方をしたけれど、全くそれに対して、アガペを生き抜かれた方ということです。

 

とても興味深いのは、この十字架にイエスが掛った時に、十字架に付けた人たちが、「お前がもし本当の救い主なら、今すぐ十字架から降りてみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。今直ぐ降りてみろ。そうしたら信じてやろう」とあざ笑うんですね。

 

でもイエスは十字架から降りない。十字架から降りるというのは、そこで、神のエゴが出ることになる。「お前ら見ておれ、おれにどんなひどいことをしたか思い知らせてやる。」これは恐ろしい裁きの神です。力の神です。キリスト教が信じているのは、神の救いは決して力ではなく、愛です。アガペのみが人間を救うことが出来る。この教えですね。イエスは苦しみのうちに十字架上で亡くなられた。

 

ここに本当に大きなキリスト教の神秘があります。ここに、すごく大切な点があります。そのようにして亡くなられたイエスを、「あの人こそが私達の救い主だ」と信じるグループが表れて、それがキリスト教に繋がっていきます。

 

イエス・キリストの「私性」と無としての私

 

キリスト教の成立ということですが、このように私達に神を示してくださった「イエス・キリストとは何者か」ということが教会の成立の過程で非常に大きな問題になります。これについては、いわゆる、「キリストとは何者か」を探求するキリスト論と言われる神学があります。イエスが亡くなったのは、紀元30年4月7日と言われています。それから6世紀、7世紀くらい経って、つまり500年、600年かけて、この「キリストとは何者か」が論じられて、最終的に一つにまとまっていくのです。そのまとまりの中心が「イエス・キリストとは、真の神であり、真の人である」いう教義です。つまり、「キリストは50%神であり50%人である」のではなく、「100%神でありかつ100%人である」これがイエス・キリストということです。これは神秘そのもので矛盾的な表現でしかこのキリストの神秘を表せないということですが、「どんなふうにしてイエス・キリストの中に神と人間がいることが出来るのか」これが古代の教会の大問題でした。ここに、私達がやっている、良道さんも言っている、「二人の私」を解くヒントがあるんですね。はい、つまり、ここにですね、「十字架で苦しんだイエスはどのイエスか」こういう問題が出てきます。

 

つまり、100%神なら、神であるイエスが苦しんだのか、あるいは苦しまなかったのか。こういうふうに追求していくと、非常に大きな問題になります。ここに最終的に「私というものを構成しているものは一体何か」という非常に大きな問題が出てきます。実は古代教会の「キリストとは何者か」という凄い哲学的な、神学的な議論の中に、人格という概念が出てくるのです。

 

私たちは「人格」という言葉を普通に使っています。私は自分の声や身体を持っていますが、でも私の両手両足がもしもげても私は私であり、外見ではないということですね。まだ髪の毛は全部ありますけど、これが無くなっても私は私です。あるいは、自動車事故にあって車が燃えて、私が丸焦げになり誰が見ても分からなくても、意識のある私が鏡を見たら「あっ私の身体が丸焦げになって、まったくひどい姿になった」と私は気づける。

 

つまり、そういう私というものが私たち一人一人にはある。他の誰でもないこの私。そういうところに人格というのを見て行こうとする。じゃあ、「この人格って一体なんですか」ということが非常に大きな問題になってきます。それを、ギリシャ教父と呼ばれるギリシャ語で神学を探求する人たちは、「ヒュポスターシス」というギリシャ語で言い表すようになりました。これを丁寧に見ていくと、根源意識と凄く重なって来るんです。

 

つまり、「ヒュポスターシス」というギリシャ語は、その人のその人たる中心を表すという概念として成立してくるんですが、実は何ものでもないのです。何ものかであったら、それは対象化されてしまいます。つまり、真の私というのは、私以外の者を私以外の者だと認める事ができる。そういうふうな私であるなら、「これが私だ」と見せる事が出来るとしたら、じゃあ、「これが私であると見せている私は誰ですか、それは誰ですか」という問題が出てきます。

 

今、ちょっと「頭のはたらき」が必要になっているかもしれませんが、このように見ていくと、真の私が私であると言い切る事が出来る者は「無」なんです。そして、「無」以外に私が私であるというところを成り立たせる場は無い。これが神としてのイエス・キリストの「私」だということです。

 

イエス・キリストは神の子として生まれたとキリスト教は信じているんですが、それは、肉体を持った人として、神がクリスマスにお生まれになったということを、クリスマスとしてお祝いするんですが、その神の「ヒュポスターシス」という、これを位格とか人格とか言ったりするのですが、その神としての「私性(わたしせい)」というのを持って、キリストはマリアの胎内からお生まれになった。こういうふうに理解することが出来るようになりました。

こうして見ていくと、この「私性」のところに神たる由縁があるけれど、それ以外は全く100%人間ということです。一つの受精卵、いわゆる処女懐胎ということをキリスト教は信じていますから特別なんですが、全く人間の細胞としてお生まれになった。でも、その「私性」つまり、「イエス・キリスト性」というのは、「神性」「神」である。その神が人間と同じように大きくなっていかれるということです。皆さんをあまりこんがらさせたくないんですが、あと3分ぐらいで話は終わりですけど。

 

つまり、本当にこれはヴィッパサナーをしていて分かるようになったんですが、十字架上のイエスの苦しみは、100%人間としての苦しみである。でも、その苦しみから神としてのキリストは離脱しているという。はい、物凄い、神秘的なところなんです。

 

でも、最初のほうで言いましたが、自分の激しい足の痛みであるのに、ふと気がつくと、全く巻き込まれないで穏やかに痛みという現象を自分のこととして受けとめられるというのは、もう一人の私ですね。あるいは、真の私がそのように気づけていると、その真の私は私の身体的な痛みに巻き込まれていない、このような現実が出てくるということです。

 

つまり、こう見ていくならば、私達が神の似姿として造られているのは、このイエス・キリストのキリスト性、無なる神という場に実は私も与る身なんだ、一人ひとりはということです。そして、ここに神の似姿として造られた私たちの場がある。まあいわゆるキリスト教の教えの枠の中ですけど、突き詰めていくとこういう理解に到達することが出来るんじゃないか。あくまでも私なりの考えなんですが、でもこれは、今行っている瞑想修行と物凄く重なってくると思うんですね。

 

そう見ていくと、今まで痛い、痛い何とかしなければというエゴが本当の私ではなく、それを静かに無償無条件の存在受容として認めることが出来る、もう一人の私、真の無なる自己というところに本当の私があり、その無なる自己こそが神との接点になっていく。

 

そこで私は、神の似姿として造られた、その私に目覚めて現実世界を生きることが出来るのです。

 

巻き込まれそうになりながらも、静かに見つめる心を持って、全く穏やかな自由な心で、そして、そここそが、全く無理なく自然体で一切条件を持ち込まずに、アガペの愛を生きられるのです。「無」だからです。そして、その「無」は神によって満たされているから、それ以上私は何も必要としないのです。本当の私とは「神のアガペに満たされた無」であるということです。そこに本当の幸せもある、そこに本当の平和もある。こういう事ではないかとだんだんと気づき始めました。

 

これは、良道さんとの遣り取りを通して、いろいろ私なりに自分が信じているキリスト教の中心とは何かと、そういったところも、だんだんと気づかされていく中で、今のところ私が到達した地点ということです。

一応キリスト教の枠の中でお話しましたけれども、これを少し置き換えると、いろんな枠で、私達はまた自分のこととして見ていくことが出来るのではないか。そして丁寧に見ていくならば、本来の私は最初から「もう一人の私」なんです。でも、それにやっぱり気づかない、目覚めない、という中で生きているから、いわゆる映画の中の私として生きている。でもそうではない。そこに本当の私は無いということですね。

 

時間が来ましたので、これぐらいで終えたいと思います。一つの参考にして下さればと思います。

 

 

 

 

| 08:09 | comments(0) | - | pookmark |
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