18/04/29 イエス・キリストだけではなく、私もまた二重構造ならば | 山下良道師法話まとめ

18/04/29 イエス・キリストだけではなく、私もまた二重構造ならば

18/04/29 イエス・キリストだけではなく、私もまた二重構造ならば

http://www.onedhamma.com/?p=6600(法話が聴けます)

 

 

マインドフルネスはせいぜい仕事の効率化を目指すというレベルでとどまるのではなく、マインドフルネスは死と輪廻の問題を解決し、キリスト教の核心部分にまで届いて行く。

今までは、マインドフルネスの急所である「私が二重構造になっている」というところが通じなかった。「普段の私」と「マインドフルになった私」は違うのだということがピンとこないと、マインドフルネスを分からない。しかし、キリスト教の神父さん達が理解してくれた。なぜならキリスト教には、一つの問題が与えられて、そのことについて2000年間考えてきたから。とてつもない量の情熱をもって考えてきた。2000年間どういうことを考えてきたかというと、「私はこの世に属していない」とイエス様の言葉についてである。

 

あらゆる知性を傾けて時間を使って情熱をもって考えてきた、その蓄積はただならぬものがある。その結果、上石神井黙想の家のリトリートの中でも、カトリックの人のなかに、イエス様の言葉が体感できたかたがいた。

第五図のわたしはこの世界の外にいて、この世界には所属していない。

 

ただ、第五図の坐禅をしているひとの解釈には二つある。身体ととらえるのか、もう一つの意識として捉えるか。

スポーツジムに行っても、頭の中のグルグルが汗をかけばスッキリする。禅では、身体に智慧があるから、身体に戻ればいい、となる。心臓の動きの中に大自然の命がはたらいている、となる。

 

心臓を動かしている御いのち、というところからは、どうしても「この世に所属していない」とはならない。

心臓を動かしている御いのちを身体の中に感じて、頭の中の訳のわからないものを手放したらいい。そして御いのちを一番純粋に表すのが坐相であり、それを骨格や筋肉で狙っていくのが坐禅。だから坐禅は瞑想ではない、となる。瞑想は心をどうにかしようという要素があるから、それを全部否定している。身体そのものに御いのちがいるから、心をどうにかしようとしないで身体を整える。そうしたら御いのちがあらわれる。その身体はすべての人とつながっていて大自然とつながっている。すべての世界が本当の身体である。そこには「心」の要素は一切入ってこない。

 

身体はすでに思いを手放しているのだから、呼吸に集中することも教えない、第五図は、第四図のぐちゃぐちゃを出てただ肉体に帰ればいい、となる。第五図をこう解釈した場合、イエス様の言葉はどこをどう考えても解けない。
観察するのは心のはたらき、心のはたらきを手放して身体に戻るのだから、禅の人達がマインドフルネスが重要だと思えないのが本音である。

 

我々は第五図を身体ではなく意識として捉えている。意識だから観察することが出来るのである。

第五図はもう一つの意識であり、普通の意識と別の意識。もう一つの意識と取った方がはるかに仏教とつながる。

内山​興正​老師の第五図の坐禅をしているひとを、単なる身体ととらえるのか、別の意識ととらえるのか。普通の意識と別の意識と区別がついていない人たちは、マインドフルネスの主体をうまく表現できない。

 

「この世に所属していない」、ということを考えてきた人が、ヴィパッサナー瞑想をすることで、いままで普通に生きてきた世界に、我々は本当には所属していない、ということが分かり、そのことを体感できる。ヴィパッサナー瞑想をすることによって。マインドフルに観察しているとき、私はこの世界の外にいる。

イエス様が「この世に所属していない」といった。
イエス様は特別な人。特別な人は所属してない。では私は?
イエス様は二重構造。信者である私は?
キリスト教は二重構造こそ一番大事な部分である。

 

柳田神父は、山下先生に対して以下のように語っておられます。

「イエス・キリストとは何者かという問題(キリスト論)として初代教会、古代教会で数百年間論じられてきました。ここには本当の私として生きるとはどういうことかというとても大事な問題が背後にあります。

そのキリスト論問題が6世紀に一応決着を見てからは、イエス・キリストがただ信じるべき対象としてのイエス・キリストになっていったところにキリスト教の抱える不幸(イエス・キリストと人間をかけ離れた関係と見てしまったこと)があります」

柳田神父はヴィパッサナー瞑想を通して自分が二重構造だと発見した。

イエスキリストとは何者か?という問題が、数百年間論じられてきて、キリスト論問題は6世紀に決着。イエスと人間をかけ離れた関係としてみてしまった。そして二重構造のイエスを信じる対象となった。

二重構造を本当に生きたのがイエス。

 

今まではイエスは我々と全く違う信じるだけの対象であり、特別な人で、すがるしかなかった。

イエスさまと我々は、二重構造という意味においては全く違わない。
ただ二重構造を十全に生きたという所が、我々とイエスさまでは全く違う。

キリストはまことの人であり、まことの神である。まことの神は本当の私として私たちにもある。そして本当の私は肉体ではなく、もう一つの意識である。
ヴィパッサナー瞑想を通してこの二重構造が分かる。

エゴとして生きてきた私が本当の私として生きていく。我々とイエス様の違いはそれを本当に生きているか、生きていないかであり、我々の向かうべき姿のイエス・キリストなのである。


神の子としてのイエス、人の子としてのイエスの二重構造は概念としてはあったが、分からなかった。マインドフルネスをすることで、この二重構造を実感できたのである。

 

 

お釈迦様が菩提樹の木の下で発見した真理と、キリスト教の核心部分「私はこの世に所属していない」という二重構造が全く一緒だということを知り、深い感動と驚きを感じています。そして柳田神父による「私も二重構造である」という大きな気づきが。キリスト教の長い歴史を変えるような凄い事であることもよく分かりました。

お釈迦様だから、イエス様だから真理に到達出来たのであって、あの人達は特別な人となり、すがる対象となる。私も以前はそうだと思っていました。私のようなものが、分かるはずがない、と。しかし、マインドフルネスによって二重構造を実際に体感することが出来、お釈迦様やイエス様は信じる対象でははく、向かうべき姿なのだと分かりました。

真の自己に目覚め、真の自己を生きる。イエス様だけが二重構造なのではない。私のようなものでも、私たちすべてが二重構造なのだと。

一重構造の惨めな私を手放し、イエス様を向かうべき対象としていく。これからのはっきりとした道しるべが出来、確信をもって進むことが出来ます。柳田神父様との7月の対談も本当に楽しみです。

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| 07:44 | comments(0) | - | pookmark |
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