18/04/15 マインドフルネスによって「死からいのちへ移る」(ヨハネ第一の手紙3:14) | 山下良道師法話まとめ

18/04/15 マインドフルネスによって「死からいのちへ移る」(ヨハネ第一の手紙3:14)

18/04/15 マインドフルネスによって「死からいのちへ移る」(ヨハネ第一の手紙3:14)

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マインドフルネスの定義は「好き嫌いなしに、評価なしに観察すること」だが、それは本当に出来るのか?

我々の心が、怒りや貪りの対象向かっているとき、そのこと自体に、横からの気づく目線がマインドフルネスなので、確かにマインドフルネスに先入観がないとき、怒っているこころに気づきなさいと言われると、不意打ちをくらったようになり、怒りから自由になる。そういう体験がビギナーズラックとして起こる。しかし、その後自分の心を気づこうと一生懸命にするけど、もう奇跡は起こらない。

 

世間のマインドフルネスには、宗教的主題である「もう一人の私」は一切出てこない。

それに対し、宗教の伝統の中では、「もう一人の私」は概念としては知られている。宗教の伝統では様々な表現を使ってそれを伝えてきた。禅では「本来の自己」と言い、浄土系の仏教では「煩悩具足でどうしようもない私」に対する「阿弥陀様に救われている私」として表現してきた。二重構造を概念としてはあるのに、問題は、もう一人の私を実感することが出来ないこと。

今の世俗的なマインドフルネスの理解のなかでは、この「2人目の自分」は登場しない。「2人目の自分」は、宗教的な色合いが大きくて、世間的世界観の中では受け入れられない。そうなると、私というのはシンプルに、肉体とシンキングしか持っていない私、となる。

 

マインドフルネスというのは、ふだんの私のはたらきではない。この私(第四図の私)が、努力することで好き嫌いやとらわれを乗り越えて、気づくのがマインドフルネスではない。なぜか?この私が好き嫌いととらわれそのものだから。好き嫌いという汚れを落とすことで、綺麗になっていくのではなく、我々自身が汚れそのものだから。

マインドフルネスは二番目の私に所属するものだと分かればすべての謎が解ける。今までは2人目の自分が実感できなかった。しかし、マインドフルネスによって2人目の自分が顕れてくる。

2人目の自分がマインドフルネスであったときに、すべての汚れから離れている。そこは掃除して綺麗にしていったのではく、もともと汚れが存在しない場所である。

 

マインドフルネスの本当の主体は2人目の自分だと分かったときに、2人目の自分が非常にクリアに見えてくる。

先発ピッチャーからリリーフピッチャーへの交代が起こる。自分が呼吸を観られないと正直に敗北を認めて、もう1人の自分へ明け渡す。
敗北した後に誰に任せるか?2人目の私に託すのである。2人目の自分が只管打坐をするのであり、2人目の自分が阿弥陀様に救われている私である。

 

2人目の自分の特色は「マインドフルネス」であり、「慈悲」であり「光」の場所。2人目の自分を本当に実感た時に、経典に書いてったことが分かる。実際にその場所に行って経験して、その場所を描写してきた経典と照らし合わせて深めていくのである。

二重構造を概念として知っていたのが、実際に体感できる時代。そして、経典に何が書いてあるかが分かるようになる。真剣に真理を探究をしてきた人にとってこんなに嬉しいことはないと思います。何より私自身、以前は難解で分からなかった事がひとつひとつ紐解かれていくことが本当に嬉しくて、ワクワクしています。

| 07:34 | comments(0) | - | pookmark |
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