18/04/08 「思いの手放し百千万発」が完了し、「光の中の只管打坐」が始まる | 山下良道師法話まとめ

18/04/08 「思いの手放し百千万発」が完了し、「光の中の只管打坐」が始まる

18/04/08 「思いの手放し百千万発」が完了し、「光の中の只管打坐」が始まる

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第五図をめぐる解釈の違いについて詳しくお話してくださいました。内山老師のおっしゃる「思いの手放し」「自己ぎりの自己」「第五図」「第六図」と、マインドフルネスどう繋がるかがはっきりとわかりました。

 

内山老師のお弟子のなかには、第五図が最重要ではないと考える人達もいる。一法庵にとって、第五図こそ最重要。この違いは、ちょっとしたすれ違いではなく、仏教史を揺るがすような違いと同等である。

現在の日本仏教にとって、マインドフルネスがトリックスターの働きをしている。実際の現場では、マインドフルネスをうまく飲み込めずにいて、マインドフルネスを巡って謎の現象ばかりを生んでいる。しかし、いま、ようやく全体図が見えてきた。

内山老師は生涯を通して、「思いの手放し」をその教えの中心に置かれた。「思い」というものが、この世界の苦しみを作っているのだから、まず我々がしなければいけないのは、思いを手放すこと。では、この「思いの手放し」とマインドフルネスがどう繋がるのか。

 

マインドフルネスは「思いを手放した後に、それでも残る意識」のことである。思いの手放しは「映画」の手放し。思いを手放した後に、我々は映画を創ってきた「思い」とは全く違う意識を持つことになる。このあたりがわからない限りは第五図を理解することは出来ない。逆に、マインドフルネスを「思いを手放した後の意識」と定義すればだいたいの謎が解ける。

マインドフルネスは、今ここで、観察すること。ただし、好き嫌いや、評価なしという条件がついている。このような条件がついた観察を、「普段の私」が出来るかというと、決して出来ない。がんばって真面目にやればやるほど出来ないことが、わかってくる。

頑張れば出来ることはこの世界には多いが、それとは根本的に違う。マインドフルネスという、評価や好き嫌いなしの観察は努力しても出来ないというのが本質である。

 

マインドフルネスは今までの私には出来ない、と潔く敗北を認めたときに、何かが死ぬことによって、死なない何かが残る。死ななかったものがマインドフルネスの主体。それは明晰な意識。つまり思いを手放した後に明晰な意識が残るのである。第四図の私の特徴である、モンキーマインドではなく、第四図の外にいる意識として存在している。それがマインドフルネスの急所。第四図の外にクリアーな意識として存在する。

 

「思い」がある。そしてただ「思いを手放す」。それだけだと、マインドフルネスは観察することだと聞くと、マインドフルネスは、この「思い」に属すると思いこんで、マインドフルネスに対して疑いを抱いてしまう。

マインドフルネスは、思いを手放す訓練をしている人間にとっては、非常に居心地が悪いものに見える。要するに、全部手放せばいいんじゃないの?観察といっても、それも思いの一種でしょう、となる。

 

単なるシンキングとしての意識ではない、別種類の、別の次元に属する意識を実感させるための訓練が八正道。いままで八正道が、いまひとつ分からなかったのは、「思い」か「思いの手放し」の二つのカテゴリしかなかったから。思いを手放した後に、全然違うクリアな意識が残る、というのが結論。それが、八正道の要である七番目の「正念」。

「思い」とそれをただ「手放す」しかない人にとって、第五図は身体になってしまう。「頭で展開している世界の根本にはわが生命があった」とはこの身体をさし、そこには意識はない。身体を通して、あらゆるものがつながっている「我が生命」となる。そういう考えかたをするかぎり、確かにマインドフルネスがでてくる余地はない。そこには気づきはない。

つまり、坐禅とはこういう意味になる。

 

思いがわいて、映画を作りその中にのみ込まれて、非常に苦しい、、、だから、その思いそを手放して、この私の身体に戻る。そうして、自己、いのちに帰って行くことが坐禅。

思いを手放したところにあるのは、ただ身体であり、それが他人や大自然と繋がっている。思い以上の自己といってもそれをしっかり実感はできないもの。


「我が生命」が、意識がない身体として、大自然とつながっているというだけならば、そこにマインドフルネスが入り込む必要がない。

このような第五図の捉え方をする限り、「自己ぎりの自己」にはどうしてもならない。「ぶっつづき」ではあっても、「ぶっちぎれ」にはなっていない。
身体と解釈してしまったら第五図が解釈しきれなくなってしまう。

思いの手放しをしたあとにそれでも残る意識は、普通の思いとは異質の、違う次元に所属する意識である。第四図で「自分の意識だけがある」と想像するような独我論とも全く違う。

そういう意識としての自己がイコール世界である。これが自己ぎりの自己。
そうすれば第五図と第六図がどれだけ大事かがわかる。
マインドフルネスは思いではなく思いを超えたところによる意識のあり方。

思いの手放しがなされた後に、それでも死ななかった何かが残って、それが意識の状態。それが見える状態が光の世界。

思いが見ている世界が形の世界。思いが手放されて再び復活した何か、それは真っ暗闇ではなく、光の世界。第四図から第五図に移行した世界。

今までタブー扱いされてきた光。光は神秘の光でもなく、見えたら地獄に落ちるのでもなく、光が見えて当たり前の世界。

意識と世界はイコール。それを生きるのが第六図である。

 

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マインドフルネスは思いを手放した後の意識、という説明がとても腑に落ちました。マインドフルネスを否定する人達が歩み寄り、理解して下さる可能性を感じています。光をタブー扱いしてきたことも、マインドフルネスに否定的だったのも、第五図を重要視しないのも、なんだか分からないものだったからだと思います。それがしっかりと分かれば、怖いものでもないし、マインドフルネスが仏教の根幹であり、何よりも大事なものだと分かるはずです。

日本仏教がマインドフルネスにより大きく変わって、お釈迦様の発見された本当のマインドフルネスが広がっていく事を期待しています」

| 06:00 | comments(0) | - | pookmark |
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