18/03/18 マインドフルネスという原理的に実践不可能な「宿題」が出された意味 | 山下良道師法話まとめ

18/03/18 マインドフルネスという原理的に実践不可能な「宿題」が出された意味

18/03/18 マインドフルネスという原理的に実践不可能な「宿題」が出された意味

http://www.onedhamma.com/?p=6541

相手に寄り添いなさい、相手と共にありなさい、相手をジャッジしてはいけない、あるがままに受け止めなさい」というのは社会福祉の美しい理想である。

また「マインドフルネスとは、今この瞬間の体験に意識を向け、評価をせず、とらわれのない状態でただ観ること」というマインドフルネスの定義。評価せずとらわれのない状態で観る事はその通り。

マインドフルネスの理想、福祉の理想、理想掲げるとはどういう事かと言うと、その反対の状況があったからである。普通は、お互いに孤立し、相手をとらわれの偏見で見ている。それが苦しみを生んでいるから、そうではない状態を、福祉のなかで、マインドフルネスのなかで、本気で目指すことになる。そのうえで、それが実際にできるのか?と言う真摯な問いかけがでてくる。

福祉の理想も、マインドフルネスもそれを本気で実践しようとすると、100%失敗する。失敗するのは必然的なこと。ここでうまくいかない自分をごまかさずに認められるか、失敗を認めて、うまくいかなかったことに本気で向き合えるか。できない自分にどれだけ誠実に向かい合うか。

努力ではどうにもならないことがある。人間が機械を使わずに、空を飛ぶ事は原理的に無理であるように、マインドフルネスの理想である「評価せずとらわれのないように観る事」は原理的に無理なのである。

先日の関西学院大学でこの点を理解して下さったのは、とてつもない時間をかけてこの理想を実現させようと本気で信じてやってきた人達だからである。

評価やとらわれを、服についた汚れを落とすようにしてはいけば落ちると言うわけではない。散々やって苦労しないとここがわからない。

この理想が成り立つにはもう一つ絶対的な要素が必要である。
私たちは第四図であると同時に第五図の人間である。その二重構造の世界観を、表したのが第六図。我々は第四図だけの人間なのではない。

お釈迦様は第五図でしか出来ないなぞかけを出している。絶対にできない宿題を出していて「できません」と言う生徒は、本気でやってきたとわかる。マインドフルネスはなぞかけであり、できないのが正解。

第五図からしかマインドフルネスは成り立たない。私たちは二重構造を生きているということ。第四図、第五図がどう違うのか、理論と実践が必要である。関西学院大学の鼎談で第五図を理解して下さった方たちは、ぼんやりと第五図を感じていたからこそ、理解できたはず。

第四図は一人一人がバラバラに生きている世界。競争の世界であり、弱肉強食の世界。第五図は第四図のようにバラバラに切れていない。つながっているのだから、あえて寄り添う必要も無いのである。寄りそわないとは、その人を苦しめている映画をリアルだと賛同しない、というだけ。

介護の現場は生老病死のリアルな現場である。第五図が大事なのは生老病死の問題を解決できる場所だから。そのとき人間の最も基本的な問題が解決する。生老病死がない世界が実感できたら、介護が楽になる。第五図には生老病死、輪廻さえもないのだから。

京都での春彼岸接心中の法話、インタビューもあり、みなさんが自分と誠実に向き合っているのが伝わってきて感動しました。

私自身も理想を本気で実現したいと、必死に頑張って、評価とらわれをなくそうとしても無くならない、ゼロにならない。そんな自分を「だめなやつ」とまた評価して生きてきました。第四図の私たち自身が、評価ととらわれそのものなのだから、相当無理なことをやって来たのだと分かります。

また、相手の話を聴いて、どれだけ共感して傾聴しても相手を救えない、という絶望も経験してきました。救うどころが相手の映画に巻き込まれてしまい、自分も苦しんでしまう。

映画によって苦しめられている人に、あらゆる方法でなんとかしてその映画から出させること。そして私たちは二重構造を生きていて、第四図であると同時に第五図の存在であること。第五図には生老病死は存在しない、生老病死そのものが映画なんだと知り、実感することが根源的に人を救うのだと確信しています。

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| 05:42 | comments(0) | - | pookmark |
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