18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」 | 山下良道師法話まとめ

18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

18/02/18 「私は被害者」という気持ちに、あえて寄り添わない「不動明王」

http://www.onedhamma.com/?p=6506

マインドフルネスの主流で言われるのはまず第一に「好き嫌いなし」「判断なし」に観察することの大切さ。

では、そもそも「好き嫌い」「判断」とはどういうことなのか?多くのマインドフルネス本の一番大切な箇所で書かれていながらも、その核心部分が曖昧にされ、きちんと説明されていないという現実。今回は、その核心部分を分かりやすく語って下さいました。

私たちが普段の生活でおこなっている「判断」は、そもそも悪いことなのだろうか。悪い判断、良い判断があるならば、「判断なしに」というのは、どういう判断をさすのだろうか。何も判断せず、好き嫌いがなければ、本屋に行ってもカフェに行っても選ぶことが出来ない。

第四図と第五図をきちんと区別する必要があるようだ。もし「第四図」しか存在していないとなると、どうしてもそのなかの「良いもの」と「悪いもの」は決定的な重要性をもってしまう。それが自分の幸不幸をすべて決めてしまう。

第四図の中で、悪いものために自分は不幸になってしまったと思い込むと、その後は、悪いものを批判して攻撃する。親のために、あの出来事のために・・・と。私は第一義的に「被害者」というアイデンティティをもつことになる。私を不幸にする原因が外にあって、私はその「被害者」。そして私を苦しめる「加害者」を批判し、攻撃し、謝罪を求める。一日中、加害者の事ばかりを考えている。たとえ50年前に起こった出来事だとしても。

ところが、私たちの本質は第五図であり、そもそも第四図は存在しない。不幸な映画は、すべて自分のこころが制作しているもの。自分で映画を作って、その映画の世界に閉じ込められる。映画とは思わず、現実だと一切疑わずに、思いこむ。

では映画を作り始める最初の第一歩は何か?
それが「好き嫌い」であり、「判断」なのである。マインドフルネスによって、好き嫌いや判断をどうして捨てるべきなのか、この説明がはっきりしていなかった。

その映画に閉じ込められて苦しんでいる人に対して、「そうだよね、つらいよね」と寄り添って、相手の苦しみを理解するのは、一見親切な良い行為のように思えるが、実は、ますますその人を映画の中に閉じ込めて地獄に突き落としてしまう。

その人を地獄から救い出すために、あらゆる手段を使ってあなた現実だと思ってるものは、映画なんだと知らせるしかない。

自分で作った不幸の映画の外に出ることが、唯一の救う方法なのである。

マインドフルネスは、今実際に苦しんでいる人に求められているが、本当はすべての人にこの薬を使う必然性がある。それはすべての人が映画にとらわれていて、映画に入っているとも気がついていないからである。

私自身、カウンセリングを勉強していく中で、延々と過去に起きた出来事に対して愚痴を言い続けたり、自分がいかに被害者かを訴える人に対して、ひたすら傾聴したところで、相手の問題が全く解決されない、もしくはまた何か問題を作り出して被害者を続けて行く、という例をいくつも見てきました。

そんな中で「共感」や「傾聴のカウンセリング」に限界を感じていました。本当にその人の問題を解決するのは、自分自身の作り出した映画の中で苦しんでいることを知ること。本当の私とは何か、を知ることなのだと今になり理解する事が出来ました。

映画の中で苦しんでいる人たち、そして映画にとらわれて、映画の中に入っているとさえ気がついていない人達が、本当のマインドフルネスを知り、映画の外から出て、苦しみから根本的に解放されることを願います。

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| 05:29 | comments(0) | - | pookmark |
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