18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて | 山下良道師法話まとめ

18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

18/02/04 エゴを瞑想の中に忍び込ませないために ー 柳田敏洋神父との対談を終えて

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真理とは普遍的であるべきで、1+1=2である、というのと同じように、どこの国の人でも、

どんな年齢の人でも通用するのが真理である。

 

ある伝統では「神」を使い、ある伝統では「神」を使わない。この2つがあって普遍的な真理にたどり着くことが出来る。

デリケートな真理なので、あらゆる表現が存在しているのである。

「判断なしに観察するのがヴィパッサナーである」と言われている。


世の中には努力すると出来ることがある。例えば英会話なら努力すれば出来るようになるが、

ヴィパッサナーは努力すれば判断なしに観察することが出来るようになるだろうか?それは絶対に出来ない。
何故ならシンキングマインド=判断だから、原理的に無理なのである。

判断することで苦しみを生んできたのだから、判断しないことを選ぶように言われてきたことが大混乱の元であった。

これは一重構造の中で、たった一つの心があって、その心が判断してきたから、これからは判断しないように生きよう、

ということであり、これをすることは非常に辛いことである。


一重構造である限り、反応しないことを数量的に減らしていく、反応しないところを目指していくしかない。

「判断なしに観察しなさい」と表現したことが「私が努力すれば判断なしに観察できるようになる」と誤解された。
「キリストの復活」も「ただ坐りなさい」という表現も二重構造を表現しているのである。


では「判断なしに観察しなさい」は何を目的とした表現か?
それは「もう一人の私を判断なしに観察する私。先発ピッチャーはシンキングマインドであり判断そのものであるから、

リリーフピッチャーの私を生きなさい」ということ。

 

「気づきなさい」というが、一番大事なのはどかから気づくか。
第五図にいさえすれば自然と出来ることを、第四図の中で無理して気づいている。

私たちは第四図以上の存在であり、第五図の存在である。第五図の存在は判断なしに好き嫌いなしに観察する。

映画館の映画の椅子に座って(第五図から)映画(第四図)を観ている。映画の世界(第四図)には存在していないから、

第五図から客観的に好き嫌いなしに観ることが出来る。

 

この「映画の世界(第四図)には存在していない」のという智慧とともに、この映画すべてのものに深い愛を感じる。

それをキリストでは「アガペー」、仏教では「慈悲」と呼ぶ。「実は私は映画の外(第五図)にいる」という智慧と、

アガペーを持って映画の世界を生きていく。映画の世界で0になることを目指す必要はないのである。

 

柳田神父様との対談の中で話題になった落とし穴として「第五図がわかった偉い俺」という心が出てくることについて。

第五図の中にプライドが入ってくることはあり得ない事であり、それはただ頭でわかったに過ぎない。

「慈悲の瞑想が必要でない、慈悲がわからない」というのも第五図を経験したことがないからそのような発言になる。

第五図を経験したら慈悲の瞑想が重要だと分かる。

 

※※※※

 

第五図を経験して、それから瞑想していなかったらエゴの誘惑、プライドの誘惑に負けてしまう。

楽しんでやり続けていけばそのような誘惑に惑わされることはない。

柳田神父さまと山下先生の宗派を超えて真理を追究されていく姿勢に本当に深く感銘を受けました。

複雑なものをわかりやすく、混乱を鎮め、分裂を統合し、真理を明らかにしていく山下先生の法話にいつも深い愛、

慈悲を感じています。
これからも歩みを止めることなく、楽しんで瞑想をやり続けて行きたいと思います。

 

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| 05:25 | comments(0) | - | pookmark |
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