17/09/02 「自力」と「他力」と「マインドフルネス」と | 山下良道師法話まとめ

17/09/02 「自力」と「他力」と「マインドフルネス」と

17/09/02 「自力」と「他力」と「マインドフルネス」と

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西山浄土宗のお寺で、「マインドフルネス」と「念仏」、「自力」と「他力」の話を、第四図と第五図によって丁寧に分かりやすく伝えてくださり、さらに理解が深まりました。

 

マインドフルネスは、パーリ語「サティ」の英訳であり、中国語訳は「念」。「念」は「念仏」の「念」なのだから浄土系仏教のコアそのもの。浄土系の仏教の人たちもマインドフルネスを無視することができないはずだが、ピンと来ていないのが現状。

 

マインドフルネスは、日本仏教の外から二回の波によってやって来ている。一回目はオウムの事件の直後くらいから、テーダワーダ仏教として日本に入ってきて、そこでは原語の「サティ」か「気づき」という言葉が使われた。そして二回目は、ここ4,5年にアメリカから入ってきて、英語のマインドフルネスという言葉が使われた。

 

残念ながら、マインドフルネスは日本の仏教とは関係ない、伝統の外から来た「うさんくさい」ものと疑いの目を向ける傾向があるが、それはまったくの誤解であり、本当のマインドフルネスが分かったらそんな態度は取れない。何故ならマインドフルネスはお釈迦様のお悟りそのものだから。

 

曹洞宗の一番大事な言葉は「非思量」であり、非思量とは何かを突き詰めて行くと、それはマインドフルネスとなる。

禅宗の人たちは「坐禅と瞑想は違う」という表現をするが、これはどういう背景があるのだろうか。

 

マインドフルネスでは「気づき」である。「思いの手放しをする坐禅」をしている禅僧にとって、気づきは思考に所属し、それは捨てるべき対象となる。その結果、マインドフルネスなど捨ててしまえ、となる。第四図の中で気づいてもそれは確かに思考(シンキング)で、禅宗の人にとって手放すべきものである。

ではマインドフルネスとははたしてそんなものだろうか。

 

ヴィパッサナー瞑想では、あるがままに、好き嫌いなしに、今ここで観察しなさいという。

そしてちょっと努力すれば、ものごとをあるがままに見られると思ってしまう。

しかし、この世界(第四図)のなかで、客観的に、あるがままになど見ることなど出来るわけがない。

たとえば、歩きスマホは危険だというが、すでに私たちの脳内にスマホが埋め込まれていて、私たちはそのスマホの画面を見ているようなものである。自分で勝手に映画を作って、その映画を見ているに過ぎない。

 

お釈迦様はマインドフルネスという秘密兵器を発見し、お伝えくださった。しかしマインドフルネスを、今のまま、生まれてきた価値観の中で理解することはできない。第四図で客観的に観ることは最初から最後まで出来ない。世界観を変えることとセットである。


私たちの本質は第五図。その本質を避難所として帰依する。第五図は苦しみが根こそぎない世界であり、正しいマインドフルネスでその避難所を見つける。


親鸞上人が「正念すなわちこれ念仏なり」という言葉を残されている。正しいマインドフルネスと南無阿弥陀仏がイコールになる。正しいマインドフルネスのとき、阿弥陀仏の避難所に帰依をしていく。自分の本質が第五図(阿弥陀仏)であり、その本質に帰依(南無)をする。

 

なぜ南無阿弥陀仏と唱えると救われるのか?お浄土は本当にあるのか?避難所があるのかないのか分からなければ、単なるおとぎ話に過ぎない。しかし、その世界を実体験すると、おとぎ話ではなくリアルに存在すると疑いがなくなる。

 

苦しみは第四図にしか存在せず、お浄土(第五図)には苦しみそのものが存在できない。第四図の中でお浄土を探しても永遠に見つからない。苦しみのない世界がどこにあるのか?どうやっていくのか?教えてもらえないし分からないのが今の宗教である。

 

「自力」と「他力」は「自分達がダメだから、他力にすがるしかない」という話ではない。だから「瞑想が自力」で「南無阿弥陀仏が他力」という話でもなく、今までの世界観(自力・第四図)でいくらやってもダメなんだ、ということが見えた。

 

第四図の中の私にとって第五図の私は「他」である。第四図の私は、私ではない、第五図の私が本当の私。本当の私が分かったとき、思い込みの「自分」からすれば「他」としか言いようがない、それを「他力」と言った。

 

 

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南無阿弥陀仏と唱えたらなぜ救われるのか?お浄土は本当にあるのか?

これは多くの方が疑問に思い「あったらいいな」という期待をもちながらも、「そんなものあるはずない」という絶望も同時に抱えているような気がします。宗教が力を失い、おとぎ話になってしまっていたときに、お浄土は実はリアルに存在することを実感できる奇跡を、またもや第四図と第五図ではっきりと示して下さいました。

今までの世界観を捨て、新しい世界観(第五図)として生きる。第四図と第五図の世界観の転換が、どれほど大きなことで、人生で最も重要なことだと分かります。この世界観の転換がなければ、第四図の中では見つかるはずのないお浄土を、永遠に探し続けていくしかありませんでした。先生に新しい世界観を教えていただき、その世界を実体験することで、お浄土は本当に存在していると確信でき、正念が南無阿弥陀仏であることが理解できました。いつも素晴らしいお話を聞かせていただき、本当にありがとうございます。

| 00:03 | comments(0) | - | pookmark |
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