17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に | 山下良道師法話まとめ

17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

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法話拝聴いたしました。仏教が大地に染みこんでいる四国で、マインドフルネスとお大師様、涅槃がどうつながるのかを大変わかりやすくお話してくださいました。

 

マインドフルネスとお大師さまがどうつながるのか?

雑誌「プレジデント・ウーマン」に特集されたような、世間で取り上げられているマインドフルネスは、怒りのスイッチをオフにする事や、人間関係がよくなるため、というマインドフルネス。それと日本仏教は深い断絶を起こしている。これを繋げた時に、マインドフルネスが生死の問題を扱えるぐらいにとてつもなく深いものになる。

 

内山老師がおっしゃった「死んでも死なない命」。これを今まで自信をもって言い切れなかったために、生死の問題はどうせ解決しない問題となり、グリーフケアも、愛する人を失った悲しみをお互いに慰め合い、話を聴くレベルでとどまっている。話を聴くこと、慰める事も勿論大事だか、愛する人を失くした圧倒的な悲しみは無くならない。

 

仏教は、もっと深いものであるはず。愛する人は肉体が消えただけで、消えてはいないとわかる。根本的なところで愛する人を亡くした人が救われる。それくらいの力が仏教にはある。

 

本当のグリーフケアは悲しみのないところ、グリーフがない世界へ連れて行くしかない。お釈迦様が言われたその場所は、ニッバーナ(ニルヴァーナ・涅槃)である。お互いに慰めよう、ではなく、悲しみのないところへ行くことが仏教の目的。お釈迦様の提示したニッバーナを指し示すのが仏教のあり方。マインドフルネスで怒りのスイッチをオフにすることも素晴らしいが、そのレベルに留めておくにはもったいなさすぎる。もっと深めていけば、ニッバーナに行ける。

 

マインドフルネスは「何かに気づく」こと。「何かに気づく」ことから、「グリーフのない世界に行く」というのは、話が飛びすぎていて信じ切れない。だから、「怒りを乗り越える」程度の地に足のついたレベルの目的ならば達成できそうに感じてしまう。

 

お釈迦様の最初の教えがマインドフルネスとニッバーナ。マインドフルネスの語源はパーリ語の「サティ」。お釈迦様はマインドフルネス(サティ)を最も重要なものとして扱っていた。八正道の七番目は「正念」(サンマ・サティ)である。


マインドフルネスは最近出てきた正体不明の言葉ではなく、仏教の中心であり仏教そのもの。これを言わないから訳が分からないものになってしまう。正しいマインドフルネスをやればニッバーナに繋がるのである。

 

今怒りに気づいていることと、ニッバーナがなぜイコールなのか?
正しく気づいているとき、今までの意識でもって気付いてはいない。今まで自分だと思っていた世界(シンキングマインド・映画の世界)の延長上で怒りに気づいていては失敗してしまう。

 

我々は二重構造になっている。禅宗的に言うと、「嘘の自分と、本来の自己」。
自分だと思っていたものが嘘で、そうではない別のものがある。マインドフルネスは別の意識のあり方。
正しいマインドフルネスをやっていたらニッバーナが見えてくる。「正しいマインドフルネスがある場所」に気づく。


「私は不動明王である」という言葉は、私たちが二重構造になっていること、そして本来の姿を思い出すために、自分が不動明王であることをビジュアライゼーション(観想)している。

 

私たちの全員がモンキーマインドを持っている。しかし、それだけではない本当の自分のところでしか気づけない。古い世界観のまま、呼吸を見ることは出来ないのである。

 

★★★★★

 

今回は第四図、第五図という言葉を使わずにマインドフルネスを完璧に理解できる素晴らしい法話でした。第四図の延長上で平面的に捉えていることで本質が見えなくなっている。私たちが二重構造であるという事実を知ることがどれだけ凄いことなのか、この事実を知ることが出来ていることに深い感動を覚えています。

山下先生の丁寧な解説で日本仏教とマインドフルネスの間の断絶は完全に消え去り、深く繋がりました。世間の「心を強くすること」を目的とするマインドフルネスがさらに深まって、根本的に苦しみから救うことができる、生死の問題を取り扱えるようなマインドフルネスになっていくことを願います」

| 23:33 | comments(0) | - | pookmark |
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