山下良道師法話集 | 山下良道師法話まとめ

18/05/27 テロを引き起こしてしまった「あの論理」から、23年後に自由になる

18/05/27 テロを引き起こしてしまった「あの論理」から、23年後に自由になるhttp://www.onedhamma.com/?p=6635

 

法話を拝聴させていただきました。
日本に大きな影を落とした、あの23年前のオウムのサリン事件について、なぜあのような事件が起こったのか、そしてどうすればもう二度と悲劇は繰り返されないのかをお話下さいました。

 

そして、あの事件は決して他人事ではなく、私達の身近に、程度は違っても起きているということ。そして、この問題を乗り越えるの鍵がマインドフルネスである事をお話して下さいました。

 

無分別智というのが、日本の宗教シーンでは非常に重要な役割を果たしている。今問題になっている日大のアメフト問題や、1995年3月に起きた地下鉄サリン事件、このあたりが無分別智と繋がっている。宗教は関係ないというスタンスは取れない。

非常に純粋な人達が純粋な素晴らしい目的のために地下鉄に毒をまいてしまった。

 

パワハラとは、パワーを持っている人が影響下にある人に対してハラスメントを行うことである。それは何も特別な人だけの話ではなく、誰しもそれぞれの職場、家庭、学校などあらゆるところで経験すること。

ルール違反だと分かっていても、パワーを持っている人に強制された時にしてしまう、それくらい上からの強制はすごい力を持つ、それも昔はオッケーだったのだが、今は問題になる。だからある人達にとってはなぜこれが問題になるのか分からない。
社会がこういうのがもう嫌だ、という流れが大きくなっているからこの問題が大問題になっている。

 

今までは、間違ったことだとわかってても、チームのために自分を犠牲にしてわざと悪いことをして損をする行為は素晴らしい、という話だった。今までだったら賞賛されたことが、今回だめと言われた。

 

この悪いとわかっていてもわざとする。わざとすること自体が賞賛されるというのはいくらでもある話である。分別と無分別との間がはっきりしなかった。無分別智がはっきりしなかった、ということとダイレクトに繋がっている。

地下鉄の中でサリンをまいたあの事件。

たくさんの人の命を奪う、とんでもないもの、それをやらせたものの正体を見ない限り、先に進めない。
こういうことをおこさせたある力、ある論理。満員電車の中で傘の先でサリンの袋を刺さざるを得ない論理。

ある種のルールの中でどうしても逃げらす、そうせざるを得ない状態になる。死刑判決を受けている実行犯の人達は、そうせざるを得ないところまで追い込まれていった。

この詰め将棋を絶対に詰めさせない。この論理自体を壊さないと、私達全員が追い込まれてしまうのである。

この論理を純粋に極端に使うということはなかった。この論理はあの教団だけの論理ではない。宗教の内側にあるものである、宗教の論理である。

 

この論理とは何か?
マインドフルネスによって分別から離れるのが仏教の基本。
「マインドフルネスなしに、分別を離れて悟りに世界に入る」ということが最終的にサリンをまかせることになる。
「サリンをまくことが悪い」ということも、それは分別に過ぎないから

いろんなことを考えても分別に過ぎない、それを捨てないと悟りの世界に行けない、とグルに言われたら、グルの前ではすべてを捨てなければならない。捨てることでグルと一体化するために。

 

この論理を悪用したらそうなる。分別を否定するのがかっこいい。それが宗教の世界にはある。世間においては分別が正しいもの。分別=世間となり、世間を乗り越えるということは分別を乗り越える、という論理を使う。常識的な生き方を否定するのがかっこいい。分別は世間的な価値観。そういうものを全部捨てて、悪いふりをしたりする。このノリの宗教者はいくらでもいる。常識的なブレーキが全部分別となり、捨てろ、となる。この論理がある限り、この論理を極端に悪用する可能性はある。

この論理を乗り越えるためのマインドフルネス、もう二度とあの悲劇を繰り返させない。あの論理を無効化する。無効化するのかマインドフルネス。

 

仏教の本当のところ、悟りを理解するのにマインドフルネスはどうしても必要である。それは八正道をみても明らかである。その鍵が七番目の正念であり正しいマインドフルネスである。

不戯論も残り七つがあった上での不戯論である。不忘念が八大人覚の鍵。「分別から離れたところに証(さとり)がある。」

世間における分別はいいこと。物事を判断する。仏教では分別はネガティブな意味となる。

頭の中のグルグルした思考をリアリティだと信じてしまう、すなわち映画の世界が分別であり。ここから離れたところに証(さとり)がある。


この分別を離れる手段として念(マインドフルネス)がある。
今まではこの念がはっきりしてなかった。

マインドフルネスだけが唯一分別を離れる方法。
分別の主体はシンキングマインドであり映画プロヂューサー。マインドフルネスの主体はシンキングマインドと違う。お釈迦様が好き嫌いなし評価なしにといったのは、主体の違いに気づきなさい、ということ。

マインドフルネスの主体はこの世界には所属しない存在として在る。この世界に所属しないからこそ、世界のすべてのものを起こったことをあるがままに見る。

 

マインドフルネスがないまま分別をはなれて悟りに向かうとなると身体に戻ればいい、シンキングを止めて無意識になるのが悟りだ、となる。

念(マインドフルネス)がはっきりしなくて、分別を離れるのがかっこいい、反道徳的なことをしたりして分別にとらわれない。邪悪なグルが現れて、分別だ迷いだと言われたら、それを離れて、それを実行するしかない。そういう風に悪用されたら詰め将棋が詰んでしまうのである。

 

マインドフルネスは智慧でもあるから、サリンをまくことはあり得ない。分別を離れたところにまったく違った主体があり、所属していない智慧である。そんな智慧が地下鉄でサリンをまくはずがないのである。

マインドフルネスによって23年前にあの教団が使った論理を乗り越えることが出来る。この論理を打ち破る唯一の対抗手段なのである。

山下先生が、1995年のオウムの事件に衝撃を受けて、教団が使った論理を乗り越えるのはマインドフルネスしかないとマインドフルネスを学ぶために、すべてを捨ててミャンマーに旅立たれていたというお話を拝聴し、胸が熱くなりました。
宗教の論理を悪用して、サリンをまかざるを得なかった。その詰め将棋を二度と詰めさせないという強い思いに感動いたしました。

純粋に一生懸命に解脱、悟りを目指していたのに、その悟りがなんなのか分かっていなかった。そしてそれはマインドフルネスなしに到達することが出来ないのに、それが決定的に欠落していた。
日本仏教も「念」の解釈が曖昧であり、シンキングを止めて身体に戻るというレベルにとどまっていた。

グルがその論理を悪用して、良心や常識までもそれは我だから捨てろ、と言われる恐ろしさ。これは決して他人事ではありません。

私にとってもグルや目上の人が絶対の時代があり、我を捨て去ってすべてグルに従うことが修行だと思い込んでいました。

宗教にマインドフルネスが欠落していたことで、ある論理を極端な方向に進むことであのような悲惨な事件が起きた。でもその論理をようやくマインドフルネスによって乗り越えることが出来ました。そして、マインドフルネスの智慧によって、二度と繰り返されることがなくなります

 

このお話は日本全体を変えていく、あの悲しみを乗り越え、そして繰り返さない。マインドフルネスがあれば大丈夫。そんな安心の中、これからみんなで光の中へ進んでいくのを感じています。

23年前のあの事件とともに、私自身に起きた出来事もスッキリと理解することが出来ました。

今回も素晴らしいお話を聴かせていただき、ありがとうございました

 

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