山下良道師法話まとめ

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

18/01/21 「二重構造のわたし」という端的な事実

http://www.onedhamma.com/?p=6471

 

宗教の伝統とマインドフルネス、一重構造と二重構造との関係を大変わかりやすく整理して下さいました。

 

私たちは誰もが「第四図の中の一人」にしか過ぎない。だけど同時に「第五図の私」としてもこの世界の外に存在している。第六図はその二重構造である自分をどうやって生きるかという話である。これは端的な事実である。

「1+1=2」というのは、世界中のどんな人にとっても、共通の事実であるように、私とは何か、生きることと死ぬこと、そういうものこそ、1+1=2と全く同じレベルで扱い、すべての人にあてはまらないといけない。一部の人、ある集団に所属する人にしかあてはまらないのならば、それは真理とは言えないのである。

私が二重構造であることは、すべての人にあてはまる真理である。


しかし、このようなケースが存在している。
‘鷭店渋い箸い考え方そのものがない
二重構造を聞いていても実感できない。

,蓮∋実としてはそうなのだけれども、その人は、その事実を知らないために間違った生き方をしてしまう。知らないばかりに無駄な生き方をして、事実に反するから苦しむのである。しかし二重構造であることを分かった途端に、人生のすべてが変わってしまう。生老病死の問題が解決されるのではなく、そもそも存在していないのだと分かる。

△脇鷭店渋い魍鞠阿箸靴討話里辰討い討癲△修譴鮗卒兇任ないから不安になる。この二重構造をどう実感するかの鍵を握るのがマインドフルネス。

 

マインドフルネスは第四図から第五図への転換であり、二重構造そのものである。マインドフルネスは第五図でしか成り立たない。

二重構造という教えがある伝統とない伝統がある。
あったとしても表現の仕方が違い複雑になっている。例えば、「キリストの復活」や、「阿弥陀様に救われている私」、などとという表現で、二重構造が表現される。それぞれの教団によってどう表現するかが違っているだけで、すべての人にとっての事実だと分かれば、他の教団への偏見がなくなる。どっちが正しいか、という話をしていては事実を見落としてしまうのである。

テーダワーダは教えが一重構造であり、「主体が客体を観察している」しかないので、ある意味スッキリしている。良いモノに対する執着、悪いモノに対する怒りというような、反応しなけれ苦しみを生まないから、反応しないようにトレーニングしていく。心と体の反応がゼロの状態を最終目的地とするのである。

 

二重構造の大乗仏教のかたの一部は、マインドフルネスを疑っているひとがいるが、それは、一重構造を疑っているのである。世間の一般的なマインドフルネスが一重構造になっているから、その疑いは仕方ない面もある。

マインドフルネスと二重構造をつなげることにより、マインドフルネスが唯一の鍵である二重構造を理解できる。

‘鷭店渋い龍気┐あるが、それを実感する技法がない大乗仏教。
一重構造の教えで、マインドフルの技法があるテーダワーダ。

このどちらも救うことができるのである。

 

マインドフルネスを初めて実践して、今までに感じたことのないような安らぎを感じたりするビギナーズラックは確かに起こるが、この二重構造が分からない限り、次からはうまくいかなくなってしまうのである。

山下先生があらゆる伝統を偏りのない目で見て、お互いを繋げることにより本質が明らかになり、これはまさに正しく物事を見る「正見」そのものだと感じました。


一つの事実を、それぞれの伝統が、それぞれの表現の仕方で伝えているだけであり、その表現方法の違うからといって争い合うという事がいかに無駄な争いかが分かります。

二重構造の世界観とワンダルマ・メソッドによって、教えだけではなく二重構造を実際に体感する事が出来、人生を根底から変えることが出来ます。

 

二重構造とマインドフルネスを繋げることにより、伝統の宗教とマインドフルネスの混乱をスッキリと整理してくださいました。二重構造が分からない、もしくは一重構造しか知らない、その混乱の中で苦しむ人たちの希望の光になると思います。

素晴らしい法話をお聞かせ下さりありがとうございました

 

http://www.onedhamma.com/?p=6471

| 14:31 | comments(0) | - | pookmark |
18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

18/01/14 14歳の直感は、やっぱり的を得ていたのか

http://www.onedhamma.com/?p=6464

第四図と第五図は知的インフォメーションでもコンセプトでもない。
そういう考え方もあるよね、というものではなく、これで人生が救われる、このことをわかるために生まれてきたというほど重要なものと思えるか?
それは第四図にどれだけ絶望していたかによる。

子供時代の夢から覚めた14歳で世界に強烈な違和感を抱いたか?
第四図の世界が苦しみの世界そのもので、何かがおかしい、認識がおかしい、第四図の世界しかないと思わされているのは嘘ではないか。このあたりを直感できるかどうか。第四図しかないところで幸せを求めるのは最初から負け戦。
もちろんある程度は勝つことができるが、どんなに勝っていても最終的に負け戦になるのである。

大人たちが教えてきた世界のあり方に違和感を感じるのは、実は最初から第五図をわかっているからであり、それなのに、間違った第四図の世界観を押しつけられたために、抵抗することになる。でも、あまりにも世間が「第四図」一色で染まっているので、自分の直感の正しさに確信がもてずに苦しむ。

「第五図を真実とする」ということにおいて、仏教もヨーガもキリスト教も共通である。ヨーガも第五図を自覚するためのひとつのシステムであり、第五図でなかったら瞑想もヨーガも、仏教もキリスト教も成り立たない。第四図のままでは経典は矛盾ばかりで読みとくことができない。第五図がわかったら経典が、何の矛盾もなく読みとけて納得が行く。

仏教の僧侶やヨーガの指導者でも第四図しかない、という価値観の人が多く存在する。第四図しかないという人で構成された組織しかないのだったら、無所属でいる方がいい。間違ったところに所属するくらいなら、しないほうがいい。無所属をつらぬいた人たちが本当に所属できる場所は第五図なのである。

自分自身幼い頃から、大人たちの押しつけてくるものが受け入れられず抵抗し続けて来ました。第四図しかないという組織の中で苦しみ、激しく否定される事で、自分にとって何が大切なのかが分かりました。真理を探究することを押さえ込んでまで他の価値観を受け入れることができない。私自身もそのような体験をしました。

そのような狭間で苦しむ人、どこかにしまい込んだはずの「14歳の違和感」が時折り顔を出し、何かがおかしいと感じながら生きている人は多いのではないでしょうか。そのような人たちが第五図を思いだし、第五図が本当に所属できる場所だと分かったら素晴らしいことだと思います。

http://www.onedhamma.com/?p=6464

| 14:19 | comments(0) | - | pookmark |
17/12/24 映画という闇、リアルという光

17/12/24 映画という闇、リアルという光

http://www.onedhamma.com/?p=6446

 

今回の法話で、新刊『光の中のマインドフルネス』で伝えたかった部分、光の本質がさらにはっきりしました。

 

瞑想中に見える光。これについて瞑想会などで質問しても明確な答えは返ってこず、「気にするな」とい処理される。なぜ「気にするな」と言うかというと、その人自身が分からないからであり、単に無知であるという問題である。

 

パオメソッドの中の光は重要な要素ではあるが、光を説明してはいない。光が見えたら、それを手がかりにジャーナに入りなさいという実践的なガイドがあるが、まだ光の本質を捉えていない。光が見えるというのは、瞑想が深まったひとつの目安ではあるが、その光自体の説明はない。内山興正老師とパオ・セヤドーの二人の教えを山下先生の中で消化したのがこの本の柱となっている。内山老師の第四図・第五図の世界観がなければ光の本質を理解できない。

 

つまり、2つの次元があるということ。

ひとつの次元(第四図)から、もうひとつの次元(第五図)に移った目安になるのが「光」である。この2つの次元を前提としていなかったら光の意味が分からない。

次元が違う時、その違いをあらゆるところで経験することで、第五図に移ったことがわかる。逆に言うならば、第四図・第五図がなかったら、違いの意味が分からない。ここが新刊「光の中のマインドフルネス」の急所である。

 

第四図の中には光はないが、第五図には光がある

第四図の中には慈悲はないが、第五図には慈悲がある。

第四図の中には智慧がないが、第五図には智慧がある。

マインドフルネスは第四図の中にはく、第5図にしかない。

 

今まで、「光」「慈悲」「マインドフルネス」「智慧」などが、もやっとしていてピンと来なかったのは、この2つの違う次元という差がはっきりしなかったからであり、この第四図・第五図の2つの次元があるとなったとき、論理的にも実践的につじつまが合うのである。

 

今自分が第四図にいるか第五図にいるか分からない、映画なのかリアルなのか分からない、ということも多いが、はっきり区別する事ができる。それは「ネガティブなものを持っているかどうか」である。ネガティブなものを持っていれば、その人は映画の中である。映画ならフィクションなので、どれだけでも作ることができ、限りなく嘘で、しかもネガティブである。映画の中の「憎しみの対象であるAさん」は、リアルに存在するAさんとは一切なんの関係もなく、架空の存在。つまり、自分が頭のなかで作りあげた架空の人と、必死になって戦っているのである。

 

映画の中に首を突っ込んでいる限り、それはリアルだと感じているが、私たちは映画から出ることができる。映画館いる時、座っているイスと、自分の体に気づくことによって、全部映画だったと気づき、一瞬で映画から出る事が出来る。

スクリーンの中を支配しているのがネガティブなエネルギーで、イスの世界を支配しているのが慈悲。映画の中は闇で、リアルな映画館は光。映画館の光を消さないと映画は観ることが出来ないのである。

そして映画を出たとき、そこにはリアルな世界であり、ものすごく豊かな世界がある。そこには光があり、慈悲があり、マインドフルネスがある。

 

映画をリアルだと思って反応してしまい、その時の憎しみや心配などの反応が体に蓄積される。映画をリアルだと思い込んでいる限り、反応しないようにする事は出来ない。映画がリアルではないと分かれば、反応する必要がないと分かり、闇から解放されるのである。

 

瞑想の中で、この世界の本質は光だと知ることができる。そして瞑想から覚めて普通の生活に戻っても光の状態は続き光を失うことはない。24時間光の中なのである。

今まで自分を苦しめていたのは、自分が作り上げた映画だったんだ、と完全に腑に落ちたときの解放感は忘れられません。映画に巻き込まれ、映画を完全にリアルだと思い込んでいたという人生最大の勘違いに気がつき、不幸な自分を手放した時、そこは光の世界が広がっていました。

 

映画がリアルではないのだがら、ネガティブなものと、もはや戦う必要もない。スクリーンの中の映画よりも映画館の方がよっぽど美しく豊かだという事を知りました。

 

誰かを憎むことで成り立つような、自分や他人を責めて生きるような、そんな苦しい人生には2度と戻りたくありません。最大の勘違いに気づかせてくださった山下先生に、心から感謝しています。

 

http://www.onedhamma.com/?p=6446

 

| 14:13 | comments(0) | - | pookmark |
17/12/17 たとえダークサイドに堕ちても、敗者復活戦があるから

17/12/17 たとえダークサイドに堕ちても、敗者復活戦があるから

 

http://www.onedhamma.com/?p=6442

 

今回は、なぜ第四図の映画に巻き込まれてしまうのか、たとえダークサイドに落ちたとしても敗者復活戦があるという希望に満ちたお話をしてくださいました。インドでリトリートのお話も聞かせていただくことが出来ました。

 

インドの旅行中に出会った「バハイ」という宗教は「神聖なるものが、この世に現れるプロセスの最中に一時的に形をとったものが、現在のそれぞれの宗教であるから、違っていて当たり前」と主張している。たくさんある宗教のうち、どの宗教が正しいかと争い合う意味がない。それぞれの違いは互いを補完しあうものである。

 

これを仏教に当てはめれば、ブッダの教えがどう道元禅師に流れているかだけであり、ブッダから道元禅師のひとつのプロセスの発展と捉えれば何の矛盾もなくさらに深く理解出来る。「道元禅」なるものが、他と離れて独立したものと捉えるよりは。

 

インドでは「第四図・第五図」という表現ではなく、「表面的な次元と深い次元」または「二重構造」という伝え方をしたが、インドではこれがすんなりと通じる。同じ次元の中で浅いとか深いとかいう話ではなく、第五図は違う次元にいるということも理解してもらえた。やはり現在のインドには、ダライラマ法王を初めとする仏教の最高レベルの先生たちがいて、普段からその話を聞いている。そのうえ、インド人の血が、次元が違うというところを直感的に理解出来る。インドの人たちは二重構造に対して宗教的な勘、感覚的な勘が非常に鋭い。

 

「光」の反対は「闇」である。しかし人は最初から闇にいるわけではない。ジェラシーや疑いなどから躓いていって闇に落ちて行ってしまう。

 

第四図は映画の世界、つまりフィクションの世界だから、どのようにでも作ることが出来る。例えばゴジラのような、実際に存在しない生き物まで映画の中でなら作ることが出来るのである。映画の中ではゴジラは非常にリアルだけれども、実際は、映画そのものはフィクションである。

 

なぜダークサイドに落ちてしまうのか?その映画がものすごく魅力的だからである。シンキングマインドはネガティブでダークなエネルギーを持っている存在であり、ダークなエネルギーでダークな映画を作ってその中にズブズブに入っていってしまうのである。でも一回落ちたら終りではなく、敗者復活戦があるのである。

 

闇の世界に入って、その人の映画の中には、Aさんという実際にいる人物が登場するが、そのAさんはその人が勝手にフィクションとして作ったAさんであり、実在の人物とは縁もゆかりもないということである。

 

ゴジラが大暴れする映画で、実際に映画に入ってしまったらゴジラに対する不安や恐怖や恨みが沸き起こる。それを続けていくとダークサイドに落ちてしまい「自分の人生がゴジラにめちゃくちゃにされた」となる。

 

実際私たちの人生でも「親のために、パートナーのために人生をめちゃくちゃにされた」という人は多い。しかしその人の映画の中での「親やパートナー」と、実際の実存する「親やパートナー」は全く違うのである。

 

ではゴジラとどう戦えばいいのか?ゴジラは映画であってもともと存在しなかったと知ること。そしてゴジラに対する恨みは自分が作り上げたものであり、恨みや不安の対象であったゴジラはいないと知り、憎しみを手放す。しかし、体にはそのネガティブなエネルギーがコリや痛みとして残っている。憎しみ続けた結果が体に残っているから、あとは身体のケアをしていく。

 

この世界が一重構造で、この第四図の苦しみに満ちた世界しかない、となると世界が存在している限り逃れられないのだからゼロになればいい、自分や世界の存在を終わらせようという発想になる。この考え方が、どこが決定的に違うかというと二重構造という点。私たちは二重構造になっていて、第四図の世界の外に存在するということによって、怒りや貪りを乗り越えていけるのである。

第四図をリアルだと思っていたことを終わらせ、第五図の本質を分かったうえで、第六図として生きる。世界がもう一度違う意味のものとして我々の前に現れる。それを生きるのが「菩薩」である。

 

光は第四図の中には存在しない。第四図を抜けるには第五図が本質だと気づけばいい。そこにあるのは光だけ。第五図にしか光のマインドフルネスは存在しない。

 

 

法話を拝聴し、今までどれだけの不幸な映画を作り、自分自身を苦しめてきたかという事が思い出されます。そして私の映画の中に出演していた人物は、実際の人物と名前は同じだとしても全く違う人物として自分自身が勝手に作り上げ苦しんでいたのだとはっきりと分かります。

 

自分を苦しめていたのは、他人ではなく他でもない自分自身だったというこのトリックに気がついた時、ハッと目が覚めて、今まで夢を見ていた、映画の世界を生きていたのだと分かりました。

 

恨むことも怒りも不安も実は映画をリアルだと思っているから起こる、そして怒りや不安の結果として、体の痛みが残る、病はネガティブな気から起こる、本当にその通りだと思いました。まずは自分の本質を知り映画を抜けて、そして身体に残っている痛みのケアをしていくというプロセスは大切だと感じました。

 

「光の中のマインドフルネス」を読んで第四図の映画から抜けて苦しみから救われる方がたくさん増えますように。たとえ第四図に引き戻されたとしても諦めず、光の存在を信じて敗者復活して下さることを願っています。

 

 

http://www.onedhamma.com/?p=6442

 

| 13:43 | comments(0) | - | pookmark |
17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6408

 

 

名古屋マインドフルリトリートに参加させていただきました。素晴らしい崇覚寺本堂で、「お浄土の光の中のマインドフルネス」について話してくださいました。

 

今までのマインドフルネスは「心を強くするマインドフルネス」であり、お浄土とマインドフルネスが結びつくことはあり得なかった。

健康で働き盛りの人たち、現役バリバリの世代のため、心が強いリーダーのためのマインドフルネスが現状である。しかし、人間の働き盛りはすぐ終わり、退職してやがては病気になり死んでしまう存在。

 

「お浄土の光の中のマインドフルネス」は生死の問題の解決がつく。第五図が自分の本質だと分かれば、生老病死はもともと存在しない、生死の問題そのものが存在しないと分かる。

 

瞑想の素晴らしい指導者から、身体の感覚や心などに「気づきなさい」と言われ、それを実際にひとりでやってみても上手くいかず、何年たっても人生に変化が起こらない。先生たちも生徒たちが気づけない理由がピンと来ず、「気づきなさい」と言うだけで、なぜ気づけないかという本当の理由が指摘されないできた。

 

素晴らしい瞑想の指導者が100%の慈悲と善意で教えてくれるマインドフルネスが、何故うまくいかないのか?それは、先生と生徒の住んでいる世界がそもそも違うから。その瞑想の指導者は第五図を既に生きていて、生徒である我々は第四図を生きているから。

第四図はモンキーマインドの世界だから0.1秒も対象にとどまれない。第四図の人間が何かに気づいているということは出来ない。

 

だからこそ第四図から第五図にどう転換するかという戦略を立てないといけない。まずは微細な感覚を感じることにより、シンキングマインドが落ちて映画のプロジェクターが止まり、映画の世界が消えていき第五図へ入っていく。体の微細な感覚を感じる事で第五図の入口に立ち、慈悲の瞑想をすることによって決定的に入って行ける。

 

「私が幸せでありますように」と言った時に、ピッチャー交代が起こり、私の外へ立っている。

第四図の私が第四図で気づこうとして失敗している。五図の中にいるという事が大事であり、まず第五図へ行くこと。この説明が決定的に欠落している。この第五図への転換なしには何も始まらない。第四図と第五図は次元の違う場所であり、第五図は慈悲が材料である。

 

慈悲がないとこの転換が起こらない。第五図がお浄土であり神の国。第四図の私が全てではない、第五図が私の本質だと分かれば、生死の問題自体が無くなり、問題として意味をなさなくなる。マインドフルネスはお浄土の光の中にしかないのである。

 

★★★★★

 

マインドフル・リトリートに参加させていただき、実際に「お浄土の光の中のマインドフルネス」、あふれる慈悲を感じながら瞑想させていただきました。崇覚寺さんの素晴らしい場のエネルギーとサンガの力によって、本当に素晴らしい時間を過ごす事が出来ました。心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

 

| 23:20 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/29 「マインドフルネス瞑想は宗教ではない」とは何を意味するのか

17/10/29 「マインドフルネス瞑想は宗教ではない」とは何を意味するのか

http://www.onedhamma.com/?p=6396

 

 

法話拝聴させていただきました。

今回は、マインドフルネスの流行の中で「瞑想は宗教ではない」「マインドフルネスは仏教から宗教的要素を取り除いたもの」と言われていることの問題、宗教とマインドフルネスが何故お互いにぶつかりあっているのかが主題でした。

 

 

あるブログに、マインドフルネスについて紹介し、そのブロガーの意見として「瞑想について個人的に誤解されたくないのは、宗教的なものと思われてしまうことです。瞑想は宗教ではありません」と、ピラミッドパワーのイラストと一緒に、書かれている。この人にとって、宗教=オカルト的なものに過ぎないのである。

 

マインドフルネスは主流雑誌に取り上げられる際に「マインドフルネスは仏教から宗教的要素を取り除いたもの」と紹介される。または「仏教由来の瞑想法」とも。「仏教由来」とは今は仏教ではないということであり、仏教と縁を切っていると強調している。好意的に見れば、仏教と縁を切ることによってニュートラルにして、医療やビジネスの現場に導入したということになる。

 

「瞑想というとスピリチュアルなもの。しかし、神秘の枠を飛び越えて、瞑想やマインドフルネスが脳に良いことが脳科学で立証されている。」と、ある雑誌の編集者は記している。


自分の脳や体にいいものだけ、テクニックだけを取り出し、自分のために使っているのである。ヨーガも同様に体操の部分だけを取り出し、美容やダイエット目的に使われている。

 

マインドフルネスによって、もっと効率よく仕事が出来る企業戦士になっていく。マインドフルネスによって強い心、強い個人を目指す。しかしこれは第四図の中のがんばりに過ぎない。頑張れば頑張るほど、限界が見えてくる。第四図のマインドフルネスでは、生と死の問題は解決できないのである。

 

個人の心が強くなったところで、会社で働いている期間は役に立つかもしれないが、その後定年になって、やがて死を迎える頃には何の役にも立たないし、救いにはならないのである。

 

心を強くするだけのマインドフルネスではもったいない。宗教にはもっとその人を本当の所で救う力があるのだから、マインドフルネスを宗教から切り離してはいけない。

宗教が怪しいというのは、言葉だけで実体がないもの。「お浄土」や「涅槃」、「神の国」や「復活」など。経験できないから怪しく感じてしまう。

それに対して最近のマインドフルネスは、脳の断面図やうつ病の再発率など具体的データが示されるから、怪しい宗教と縁を切って、心が強くなる人間になろうという話になる。

 

これは第四図のマインドフルネスであり、ブッダのマインドフルネスではない。ブッダが菩提樹の下で発見した「サティ」、八正道の七番目の「正念(サンマ・サティ)」ではない。

 

第四図のマインドフルネスは生と死の問題を越えられないが、ブッダのマインドフルネスは超えられる。

病気になったとき、死にゆくとき、人の一生を救っていくものである。そうでなければブッダのマインドフルネスとは言えない。

 

自分の本質が第五図だと分かれば、生死の問題も乗り越えられる。

そしてお浄土も涅槃も、神の国も復活もすべて実体のない架空のものではなく、事実そのものだと分かる。

信用を失ってしまった宗教、死にかけた宗教をもう一度蘇らせるのがマインドフルネスなのである。

 

 

★★★★★

 

私も、先日発売されたニューズウィークの「日本人が知らないマインドフルネス」という記事を読み、アメリカのマインドフルネスの現状を知り、驚きました。ビジネスや教育現場に使われるために、メリットや具体的なデータを並べ立てていて、ブッダの発見した「サティ」とはかけ離れていました。

実体がないから怪しい、だから目に見えるデータや脳の断面図の方が説得力があり信じてしまう。

しかし、第五図を知り、体感すると、そこがお浄土であり、涅槃であり、神の国であると確かに実感しました。そして第四図の私が死に第五図の私が復活したのだと。その実感こそ、脳科学やデータなど遥かに超える人生を変える圧倒的な説得力がありました。

山下先生の新しい著書で、たくさんの人に「ブッダのマインドフルネス」「第五図のマインドフルネス」を知っていただき、実践され、人生が根本から救われる事を願っています。

 

| 23:24 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/22 別の部屋があることを、ジャーナを通して知る

17/10/22 別の部屋があることを、ジャーナを通して知る

http://www.onedhamma.com/?p=6390

 

法話拝聴いたしました。久しぶりにジャーナのお話を聴くことが出来ました。

今回の法話で「ジャーナ」と「第四図・第五図」がどう繋がるのかを解説してくださいました。

 

仏教の構造は「戒・定・慧」が基本的な構造になっている。

戒律を守り、禅定を深め、智慧を養っていく。これはサマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想と見事にリンクしている。

 

心を静めて禅定を深めていくのがサマタ瞑想。智慧を深めていくのがヴィパッサナー瞑想、となるのが基本的な設計。

したがってサマタ瞑想の目的は禅定に入る事である。

 

ピッチャー交代は徐々に段階的に起こり、ある段階で決定的に変わる。禅定には四つの段階がある。

四つの段階で徐々にピッチャー交代が起こることの証明になっている。

 

私たちはシネマコンプレックスに住んでいるようなもの。一日中映画を観ている。

第四図の中で映画を作り、その映画に閉じ込められているのである。そんな中で瞑想したら大失敗する。

呼吸が見られなくて、手のひらに何も感じなくて、慈悲の瞑想も嘘くさく感じてしまう。

なんとか瞑想の対象に戻そうとするが、モンキーマインドとの闘いは不毛に終わる。

 

モンキーマインドと闘うのではなく、私というのは本当はモンキーではない(第五図)、という考え方があった時に、戻す作業が実ってくる。外れては戻るのは、単なるモンキーマインドであって、それを観ている第五図の私はそうではない、とわかってくる。

第五図の発想があるだけで、ピッチャー交代の第一歩を踏み出せる。

 

禅定は第一禅定から第四禅定まであり、第一禅定はヴィタカとヴィチャーラがある。Z-Z’線から外れては戻るのを、そこに居続けるためのはたらきである。第二禅定ではこの二つの働きが落ちて、もうずれることがない。Z-Z’線のモデルを超えている。第三禅定はさらに深いところに行って喜び(ピーティ)の段階からスカ(楽)という段階へと深まる。第四禅定は喜びも無くなり、ウペッカー(平静さ)になり、エーカガッター(一境性)となり対象とひとつになる。

 

これでピッチャー交代の過程がはっきりと分かる。禅定とは別の部屋に入る事、すなわち第五図に完全に入るということだということである。そこからヴィパッサーナーが始まる。好き嫌いなしに、あるがままに観るというのは、第四図の中では不可能である。第五図に入って、第五図から観察することでしか、好き嫌いなしに、あるがままにヴィパッサナーすることは出来ないのである。

 

 

★★★★★

今回に法話で、「ジャーナ」と「第四図・第五図」が繋がり、山下先生の二人の師であるパオ・セヤドー師と内山興正老師が繋がりました。

山下先生の新しい著書が出版されることによって、第四図・第五図の世界観、そしてジャーナが世間に知れ渡り、仏教界、スピリチュアル業界、ヨーガ界、医療介護など様々な分野にわたり、多大な影響を与える著書になると思います。新しい本のご出版を楽しみにしています。

今回もワクワクするお話を聞かせていただきありがとうございました。

| 23:28 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/15 「二重構造の私」とマインドフルネス

17/10/15 「二重構造の私」とマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6383

 

「世間で流行している「心が強くなるマインドフルネス」。この発想がどうしておかしいのか?

なぜ心を強くなることを目指してはいけないのか?ということを大変分かりやすく説明してくださいました。

 

マインドフルネスはインド生まれであり、お釈迦様が菩提樹の下でお悟りになられた時に発見された「サティ」が原語である。したがってマインドフルネスはいきなり現代に登場したものではなく、長い歴史があり、仏教そのものである。

 

マインドフルネスのルーツはお釈迦様であるのに、現代のマインドフルネスはまるでルーツがないかのようにして隠している。ルーツを排除して、根っこを捨ててしまい、脳の科学として現れたマインドフルネス。怒りのスイッチをオフにする方法、状況を俯瞰できるようになる方法として、セラピーや社員研修の現場で、自己啓発に近い形で使われているのが現在のマインドフルネスの状況である。

 

なぜ宗教色を隠すのか?それは日本において宗教というのは評判が悪いからであり、マインドフルネスが悪いものとの関係を断ち切って脳科学として現れたのである。しかし、これは本当のマインドフルネスではない。

 

このような状況でマインドフルネスが現れたために、日本仏教もマインドフルネスを誤解して、マインドフルネスを批判したり否定したりする大混乱が起きている。しかし、マインドフルネスのルーツはお釈迦様であるのだから、日本仏教がマインドフルネスを否定することはお釈迦様を否定することになり、絶対にあってはいけないことなのである。

 

菩提樹の下で、「聖なる真理」を発見されたお釈迦様が最初に説かれた四聖諦と八正道。八正道の七番目に「正念(サンマ・サティ)」がある。「正しい気づきさえすれば、世界の苦しみは無くなる」という教えは、一見「怒りに気づけは怒りがなくなる」という風に思ってしまう。しかし、実際に怒りに気づいても、怒りがコントロールできない事を多くの人が実感している。お釈迦様の言われた通りにやっているのに怒りが無くならない、心が強くならないのである。

 

ではその強くしたい「心」とは何なのか?一日中考え事をしたり、過去や未来の事を考え、心配したり不安になったりする「心」である。その心のまま怒りに気づいても何も起こらない。人間とは一体何なのか?という事に対して致命的な思い違いを犯しているのである。

 

肉体や脳、一日中考え事や感情がわいているあなたが「私」ではない。これは自分に対する根本的な認識の間違いであり、我々はまったく違う理解をしなければいけない。

 

自分は二重構造になっているのである。


現代は「私」というものを「物質的肉体とその一部である脳が生み出した思考と感情が自分」という認識だが、自分とはそれ以上の存在である。どうしようもない私と、そこから完全に自由な私がいる。それが何なのかをお釈迦様をはじめとする先達たちが伝えようとしてきた。

 

マインドフルネスを「怒りが止まらない私」が「気づく」のではなく、違う何かのところから気づくという二重構造の私として捉えなければいけない。

自分が一重構造ならば、体の筋肉を鍛えるように、心を強くするという発想しかもてない。しかし、心は筋肉を鍛えるように強くなることはありえない。本当の強さとは、暴走する心が自分ではないということを知り、本当の在り方に気づくこと。その時、無限大に強くなれるのである。

 

心を強くしようとマインドフルネスを試みて、どれだけやってみても心が強くならないことを知る、まさにここからがスタートとなる。一重構造の自分がどれだけマインドフルネスを実践しても何も起こらないのである。

 

 

★★★★★

 

私自身、心を強くしようと、様々な理論やテクニックを使い、自分を変えようとして、散々失敗してきました。そして「強くなれない私がダメなんだ。できない私がダメなんだ。」と自らを責めるという悪循環でした。どれだけやっても心は強くならないと挫折した時がまさにスタートでした。

 

そのループを断ち切ったのは「私」とは何か?を知る事。私が二重構造であるという事が本当の意味で腑に落ちたからだと実感しています。今までの私の延長線上でどれだけがんばっても無理だったのだと。自分とは何か?という世間一般の認識、この大きな間違いに気づき、新しい世界観を受け入れた時、本当のマインドフルネスが出来るだと感じています

| 23:31 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

http://www.onedhamma.com/?p=6379

 

法話拝聴いたしました。仏教が大地に染みこんでいる四国で、マインドフルネスとお大師様、涅槃がどうつながるのかを大変わかりやすくお話してくださいました。

 

マインドフルネスとお大師さまがどうつながるのか?

雑誌「プレジデント・ウーマン」に特集されたような、世間で取り上げられているマインドフルネスは、怒りのスイッチをオフにする事や、人間関係がよくなるため、というマインドフルネス。それと日本仏教は深い断絶を起こしている。これを繋げた時に、マインドフルネスが生死の問題を扱えるぐらいにとてつもなく深いものになる。

 

内山老師がおっしゃった「死んでも死なない命」。これを今まで自信をもって言い切れなかったために、生死の問題はどうせ解決しない問題となり、グリーフケアも、愛する人を失った悲しみをお互いに慰め合い、話を聴くレベルでとどまっている。話を聴くこと、慰める事も勿論大事だか、愛する人を失くした圧倒的な悲しみは無くならない。

 

仏教は、もっと深いものであるはず。愛する人は肉体が消えただけで、消えてはいないとわかる。根本的なところで愛する人を亡くした人が救われる。それくらいの力が仏教にはある。

 

本当のグリーフケアは悲しみのないところ、グリーフがない世界へ連れて行くしかない。お釈迦様が言われたその場所は、ニッバーナ(ニルヴァーナ・涅槃)である。お互いに慰めよう、ではなく、悲しみのないところへ行くことが仏教の目的。お釈迦様の提示したニッバーナを指し示すのが仏教のあり方。マインドフルネスで怒りのスイッチをオフにすることも素晴らしいが、そのレベルに留めておくにはもったいなさすぎる。もっと深めていけば、ニッバーナに行ける。

 

マインドフルネスは「何かに気づく」こと。「何かに気づく」ことから、「グリーフのない世界に行く」というのは、話が飛びすぎていて信じ切れない。だから、「怒りを乗り越える」程度の地に足のついたレベルの目的ならば達成できそうに感じてしまう。

 

お釈迦様の最初の教えがマインドフルネスとニッバーナ。マインドフルネスの語源はパーリ語の「サティ」。お釈迦様はマインドフルネス(サティ)を最も重要なものとして扱っていた。八正道の七番目は「正念」(サンマ・サティ)である。


マインドフルネスは最近出てきた正体不明の言葉ではなく、仏教の中心であり仏教そのもの。これを言わないから訳が分からないものになってしまう。正しいマインドフルネスをやればニッバーナに繋がるのである。

 

今怒りに気づいていることと、ニッバーナがなぜイコールなのか?
正しく気づいているとき、今までの意識でもって気付いてはいない。今まで自分だと思っていた世界(シンキングマインド・映画の世界)の延長上で怒りに気づいていては失敗してしまう。

 

我々は二重構造になっている。禅宗的に言うと、「嘘の自分と、本来の自己」。
自分だと思っていたものが嘘で、そうではない別のものがある。マインドフルネスは別の意識のあり方。
正しいマインドフルネスをやっていたらニッバーナが見えてくる。「正しいマインドフルネスがある場所」に気づく。


「私は不動明王である」という言葉は、私たちが二重構造になっていること、そして本来の姿を思い出すために、自分が不動明王であることをビジュアライゼーション(観想)している。

 

私たちの全員がモンキーマインドを持っている。しかし、それだけではない本当の自分のところでしか気づけない。古い世界観のまま、呼吸を見ることは出来ないのである。

 

★★★★★

 

今回は第四図、第五図という言葉を使わずにマインドフルネスを完璧に理解できる素晴らしい法話でした。第四図の延長上で平面的に捉えていることで本質が見えなくなっている。私たちが二重構造であるという事実を知ることがどれだけ凄いことなのか、この事実を知ることが出来ていることに深い感動を覚えています。

山下先生の丁寧な解説で日本仏教とマインドフルネスの間の断絶は完全に消え去り、深く繋がりました。世間の「心を強くすること」を目的とするマインドフルネスがさらに深まって、根本的に苦しみから救うことができる、生死の問題を取り扱えるようなマインドフルネスになっていくことを願います」

| 23:33 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/08 第五図に対する「認知的不協和」を越えて

17/10/08 第五図に対する「認知的不協和」を越えて

http://www.onedhamma.com/?p=6374

 

法話拝聴いたしました。

今回は「認知的不協和」という言葉を用いて、なぜ第五図の世界観を拒否してしまうのかを解説してくださいました。

 

認知的不協和とは
人は情報を取得する際、築き続けた信念に合致しないものは選択しない。
信念を崩そうとすると、膨大な時間を浪費したことが認識され、多大なストレスがかかる。

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感。

 

「世界とはこういうものだ」と思いこんでいるのとは違う在り方が出てきた時に認めることが出来ない。

これまでの自分を正当化するために、現在目の前にあるリアルから目をそらし、ゆがんで認識したうえで正当化する。

いままで築き続けてきた世界観、信念とぶつかるかるものは、最初から存在すら認めない。見たい現実しか見ていないのである。

 

大井先生との対談は「死んだら終わりの世界観を超えて」というテーマであった。大井先生自身が「看取り」を通して、「死んだら終わりではない世界」に触れていたのは間違いない。その大井先生の経験に基づく話を、一法庵の第四図・第五図の世界観をつなげる対談となった。

 

「死んだら終わり」という世界観(第四図)を乗り越えるのは第五図しかない。グリーフケアが絶対に必要だということは、第四図しか存在しないと深く思い込んでいるということである。第四図では悲しみを減らしていくことは出来ても、無くなることはない。しかし、第五図には、悲しみそのもがもう存在しない。

 

愛する人が亡くなったとき、形が消えて、形なき何かが現れて、愛するひとの本当の本質が見えてくる。悲劇の中に聖なるものを感じる。愛する人は肉体を失っただけで、死んでなどいない、とわかる。そのことがわかることが、本当の意味でのグリーフケア。

これは、愛する人を失って、打ちのめされて初めて分かること。話を聞いてもらったり、同じような境遇の人たちと話し合ったりしたところで、やはり愛する人を失った悲しみは無くならない、と。第五図が分かれば、本当の意味で「グリーフ」を「ケア」出来るのである。

 

第四図の「脳が記憶などを司り、この部分がこういう働きをして・・・」という脳科学の話と、私の本質は外(第五図)にある、という事は矛盾しない。別のことを取り扱っているから。第五図の世界観が理解できれば、仏典が理路整然と理解でき、般若心経も唯識も、正法眼蔵も分かるのである。

 

第五図を知れば、「生と死の問題」を乗り越えることが出来る。第四図では、体を感じる事ができなかったが、第五図の私は体に戻り、微細な感覚を感じることが出来る。「第五図の私」を理解をすることで、慈悲やマインドフルネスを理解することが出来る。

認知的不協和によって、たとえ今までしていたことが間違いだと気がついても、今までかけた時間を無駄にしないために間違ったことをやり続けてしまう。「認知的不協和」と「エゴの問題」、この2点によって瞑想もつまずいてしまうので、この2点を乗り越えていくことが重要である。

 

恥ずかしながら、私自身も随分と間違えてきた人生でした。自分の間違いに気づき、手放すとき、どれだけの時間とエネルギーを使って来たことかと落ち込んだ事が何度となくあります。そんな失敗を繰り返しながら、幸運にも一法庵にたどり着いて、真実を知ることができ、本当に幸せです。自分の間違いを素直に認め、間違ったことに執着せず、修正していくことで良い方向へ進むことが出来るのだと感じました。


「認知的不協和」と「エゴ」という、つまずく点、乗り越えるべき点をはっきりと示して下さいました。これからも迷うことなく探求を続けていける喜びを感じ、ワクワクしています」

| 23:39 | comments(0) | - | pookmark |
Page: 1/3   >>
メニュー
Page top
モバイル表示