山下良道師法話まとめ

17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

17/11/04 お浄土の光の中のマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6408

 

 

名古屋マインドフルリトリートに参加させていただきました。素晴らしい崇覚寺本堂で、「お浄土の光の中のマインドフルネス」について話してくださいました。

 

今までのマインドフルネスは「心を強くするマインドフルネス」であり、お浄土とマインドフルネスが結びつくことはあり得なかった。

健康で働き盛りの人たち、現役バリバリの世代のため、心が強いリーダーのためのマインドフルネスが現状である。しかし、人間の働き盛りはすぐ終わり、退職してやがては病気になり死んでしまう存在。

 

「お浄土の光の中のマインドフルネス」は生死の問題の解決がつく。第五図が自分の本質だと分かれば、生老病死はもともと存在しない、生死の問題そのものが存在しないと分かる。

 

瞑想の素晴らしい指導者から、身体の感覚や心などに「気づきなさい」と言われ、それを実際にひとりでやってみても上手くいかず、何年たっても人生に変化が起こらない。先生たちも生徒たちが気づけない理由がピンと来ず、「気づきなさい」と言うだけで、なぜ気づけないかという本当の理由が指摘されないできた。

 

素晴らしい瞑想の指導者が100%の慈悲と善意で教えてくれるマインドフルネスが、何故うまくいかないのか?それは、先生と生徒の住んでいる世界がそもそも違うから。その瞑想の指導者は第五図を既に生きていて、生徒である我々は第四図を生きているから。

第四図はモンキーマインドの世界だから0.1秒も対象にとどまれない。第四図の人間が何かに気づいているということは出来ない。

 

だからこそ第四図から第五図にどう転換するかという戦略を立てないといけない。まずは微細な感覚を感じることにより、シンキングマインドが落ちて映画のプロジェクターが止まり、映画の世界が消えていき第五図へ入っていく。体の微細な感覚を感じる事で第五図の入口に立ち、慈悲の瞑想をすることによって決定的に入って行ける。

 

「私が幸せでありますように」と言った時に、ピッチャー交代が起こり、私の外へ立っている。

第四図の私が第四図で気づこうとして失敗している。五図の中にいるという事が大事であり、まず第五図へ行くこと。この説明が決定的に欠落している。この第五図への転換なしには何も始まらない。第四図と第五図は次元の違う場所であり、第五図は慈悲が材料である。

 

慈悲がないとこの転換が起こらない。第五図がお浄土であり神の国。第四図の私が全てではない、第五図が私の本質だと分かれば、生死の問題自体が無くなり、問題として意味をなさなくなる。マインドフルネスはお浄土の光の中にしかないのである。

 

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マインドフル・リトリートに参加させていただき、実際に「お浄土の光の中のマインドフルネス」、あふれる慈悲を感じながら瞑想させていただきました。崇覚寺さんの素晴らしい場のエネルギーとサンガの力によって、本当に素晴らしい時間を過ごす事が出来ました。心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

 

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17/10/29 「マインドフルネス瞑想は宗教ではない」とは何を意味するのか

17/10/29 「マインドフルネス瞑想は宗教ではない」とは何を意味するのか

http://www.onedhamma.com/?p=6396

 

 

法話拝聴させていただきました。

今回は、マインドフルネスの流行の中で「瞑想は宗教ではない」「マインドフルネスは仏教から宗教的要素を取り除いたもの」と言われていることの問題、宗教とマインドフルネスが何故お互いにぶつかりあっているのかが主題でした。

 

 

あるブログに、マインドフルネスについて紹介し、そのブロガーの意見として「瞑想について個人的に誤解されたくないのは、宗教的なものと思われてしまうことです。瞑想は宗教ではありません」と、ピラミッドパワーのイラストと一緒に、書かれている。この人にとって、宗教=オカルト的なものに過ぎないのである。

 

マインドフルネスは主流雑誌に取り上げられる際に「マインドフルネスは仏教から宗教的要素を取り除いたもの」と紹介される。または「仏教由来の瞑想法」とも。「仏教由来」とは今は仏教ではないということであり、仏教と縁を切っていると強調している。好意的に見れば、仏教と縁を切ることによってニュートラルにして、医療やビジネスの現場に導入したということになる。

 

「瞑想というとスピリチュアルなもの。しかし、神秘の枠を飛び越えて、瞑想やマインドフルネスが脳に良いことが脳科学で立証されている。」と、ある雑誌の編集者は記している。


自分の脳や体にいいものだけ、テクニックだけを取り出し、自分のために使っているのである。ヨーガも同様に体操の部分だけを取り出し、美容やダイエット目的に使われている。

 

マインドフルネスによって、もっと効率よく仕事が出来る企業戦士になっていく。マインドフルネスによって強い心、強い個人を目指す。しかしこれは第四図の中のがんばりに過ぎない。頑張れば頑張るほど、限界が見えてくる。第四図のマインドフルネスでは、生と死の問題は解決できないのである。

 

個人の心が強くなったところで、会社で働いている期間は役に立つかもしれないが、その後定年になって、やがて死を迎える頃には何の役にも立たないし、救いにはならないのである。

 

心を強くするだけのマインドフルネスではもったいない。宗教にはもっとその人を本当の所で救う力があるのだから、マインドフルネスを宗教から切り離してはいけない。

宗教が怪しいというのは、言葉だけで実体がないもの。「お浄土」や「涅槃」、「神の国」や「復活」など。経験できないから怪しく感じてしまう。

それに対して最近のマインドフルネスは、脳の断面図やうつ病の再発率など具体的データが示されるから、怪しい宗教と縁を切って、心が強くなる人間になろうという話になる。

 

これは第四図のマインドフルネスであり、ブッダのマインドフルネスではない。ブッダが菩提樹の下で発見した「サティ」、八正道の七番目の「正念(サンマ・サティ)」ではない。

 

第四図のマインドフルネスは生と死の問題を越えられないが、ブッダのマインドフルネスは超えられる。

病気になったとき、死にゆくとき、人の一生を救っていくものである。そうでなければブッダのマインドフルネスとは言えない。

 

自分の本質が第五図だと分かれば、生死の問題も乗り越えられる。

そしてお浄土も涅槃も、神の国も復活もすべて実体のない架空のものではなく、事実そのものだと分かる。

信用を失ってしまった宗教、死にかけた宗教をもう一度蘇らせるのがマインドフルネスなのである。

 

 

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私も、先日発売されたニューズウィークの「日本人が知らないマインドフルネス」という記事を読み、アメリカのマインドフルネスの現状を知り、驚きました。ビジネスや教育現場に使われるために、メリットや具体的なデータを並べ立てていて、ブッダの発見した「サティ」とはかけ離れていました。

実体がないから怪しい、だから目に見えるデータや脳の断面図の方が説得力があり信じてしまう。

しかし、第五図を知り、体感すると、そこがお浄土であり、涅槃であり、神の国であると確かに実感しました。そして第四図の私が死に第五図の私が復活したのだと。その実感こそ、脳科学やデータなど遥かに超える人生を変える圧倒的な説得力がありました。

山下先生の新しい著書で、たくさんの人に「ブッダのマインドフルネス」「第五図のマインドフルネス」を知っていただき、実践され、人生が根本から救われる事を願っています。

 

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17/10/22 別の部屋があることを、ジャーナを通して知る

17/10/22 別の部屋があることを、ジャーナを通して知る

http://www.onedhamma.com/?p=6390

 

法話拝聴いたしました。久しぶりにジャーナのお話を聴くことが出来ました。

今回の法話で「ジャーナ」と「第四図・第五図」がどう繋がるのかを解説してくださいました。

 

仏教の構造は「戒・定・慧」が基本的な構造になっている。

戒律を守り、禅定を深め、智慧を養っていく。これはサマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想と見事にリンクしている。

 

心を静めて禅定を深めていくのがサマタ瞑想。智慧を深めていくのがヴィパッサナー瞑想、となるのが基本的な設計。

したがってサマタ瞑想の目的は禅定に入る事である。

 

ピッチャー交代は徐々に段階的に起こり、ある段階で決定的に変わる。禅定には四つの段階がある。

四つの段階で徐々にピッチャー交代が起こることの証明になっている。

 

私たちはシネマコンプレックスに住んでいるようなもの。一日中映画を観ている。

第四図の中で映画を作り、その映画に閉じ込められているのである。そんな中で瞑想したら大失敗する。

呼吸が見られなくて、手のひらに何も感じなくて、慈悲の瞑想も嘘くさく感じてしまう。

なんとか瞑想の対象に戻そうとするが、モンキーマインドとの闘いは不毛に終わる。

 

モンキーマインドと闘うのではなく、私というのは本当はモンキーではない(第五図)、という考え方があった時に、戻す作業が実ってくる。外れては戻るのは、単なるモンキーマインドであって、それを観ている第五図の私はそうではない、とわかってくる。

第五図の発想があるだけで、ピッチャー交代の第一歩を踏み出せる。

 

禅定は第一禅定から第四禅定まであり、第一禅定はヴィタカとヴィチャーラがある。Z-Z’線から外れては戻るのを、そこに居続けるためのはたらきである。第二禅定ではこの二つの働きが落ちて、もうずれることがない。Z-Z’線のモデルを超えている。第三禅定はさらに深いところに行って喜び(ピーティ)の段階からスカ(楽)という段階へと深まる。第四禅定は喜びも無くなり、ウペッカー(平静さ)になり、エーカガッター(一境性)となり対象とひとつになる。

 

これでピッチャー交代の過程がはっきりと分かる。禅定とは別の部屋に入る事、すなわち第五図に完全に入るということだということである。そこからヴィパッサーナーが始まる。好き嫌いなしに、あるがままに観るというのは、第四図の中では不可能である。第五図に入って、第五図から観察することでしか、好き嫌いなしに、あるがままにヴィパッサナーすることは出来ないのである。

 

 

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今回に法話で、「ジャーナ」と「第四図・第五図」が繋がり、山下先生の二人の師であるパオ・セヤドー師と内山興正老師が繋がりました。

山下先生の新しい著書が出版されることによって、第四図・第五図の世界観、そしてジャーナが世間に知れ渡り、仏教界、スピリチュアル業界、ヨーガ界、医療介護など様々な分野にわたり、多大な影響を与える著書になると思います。新しい本のご出版を楽しみにしています。

今回もワクワクするお話を聞かせていただきありがとうございました。

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17/10/15 「二重構造の私」とマインドフルネス

17/10/15 「二重構造の私」とマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6383

 

「世間で流行している「心が強くなるマインドフルネス」。この発想がどうしておかしいのか?

なぜ心を強くなることを目指してはいけないのか?ということを大変分かりやすく説明してくださいました。

 

マインドフルネスはインド生まれであり、お釈迦様が菩提樹の下でお悟りになられた時に発見された「サティ」が原語である。したがってマインドフルネスはいきなり現代に登場したものではなく、長い歴史があり、仏教そのものである。

 

マインドフルネスのルーツはお釈迦様であるのに、現代のマインドフルネスはまるでルーツがないかのようにして隠している。ルーツを排除して、根っこを捨ててしまい、脳の科学として現れたマインドフルネス。怒りのスイッチをオフにする方法、状況を俯瞰できるようになる方法として、セラピーや社員研修の現場で、自己啓発に近い形で使われているのが現在のマインドフルネスの状況である。

 

なぜ宗教色を隠すのか?それは日本において宗教というのは評判が悪いからであり、マインドフルネスが悪いものとの関係を断ち切って脳科学として現れたのである。しかし、これは本当のマインドフルネスではない。

 

このような状況でマインドフルネスが現れたために、日本仏教もマインドフルネスを誤解して、マインドフルネスを批判したり否定したりする大混乱が起きている。しかし、マインドフルネスのルーツはお釈迦様であるのだから、日本仏教がマインドフルネスを否定することはお釈迦様を否定することになり、絶対にあってはいけないことなのである。

 

菩提樹の下で、「聖なる真理」を発見されたお釈迦様が最初に説かれた四聖諦と八正道。八正道の七番目に「正念(サンマ・サティ)」がある。「正しい気づきさえすれば、世界の苦しみは無くなる」という教えは、一見「怒りに気づけは怒りがなくなる」という風に思ってしまう。しかし、実際に怒りに気づいても、怒りがコントロールできない事を多くの人が実感している。お釈迦様の言われた通りにやっているのに怒りが無くならない、心が強くならないのである。

 

ではその強くしたい「心」とは何なのか?一日中考え事をしたり、過去や未来の事を考え、心配したり不安になったりする「心」である。その心のまま怒りに気づいても何も起こらない。人間とは一体何なのか?という事に対して致命的な思い違いを犯しているのである。

 

肉体や脳、一日中考え事や感情がわいているあなたが「私」ではない。これは自分に対する根本的な認識の間違いであり、我々はまったく違う理解をしなければいけない。

 

自分は二重構造になっているのである。


現代は「私」というものを「物質的肉体とその一部である脳が生み出した思考と感情が自分」という認識だが、自分とはそれ以上の存在である。どうしようもない私と、そこから完全に自由な私がいる。それが何なのかをお釈迦様をはじめとする先達たちが伝えようとしてきた。

 

マインドフルネスを「怒りが止まらない私」が「気づく」のではなく、違う何かのところから気づくという二重構造の私として捉えなければいけない。

自分が一重構造ならば、体の筋肉を鍛えるように、心を強くするという発想しかもてない。しかし、心は筋肉を鍛えるように強くなることはありえない。本当の強さとは、暴走する心が自分ではないということを知り、本当の在り方に気づくこと。その時、無限大に強くなれるのである。

 

心を強くしようとマインドフルネスを試みて、どれだけやってみても心が強くならないことを知る、まさにここからがスタートとなる。一重構造の自分がどれだけマインドフルネスを実践しても何も起こらないのである。

 

 

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私自身、心を強くしようと、様々な理論やテクニックを使い、自分を変えようとして、散々失敗してきました。そして「強くなれない私がダメなんだ。できない私がダメなんだ。」と自らを責めるという悪循環でした。どれだけやっても心は強くならないと挫折した時がまさにスタートでした。

 

そのループを断ち切ったのは「私」とは何か?を知る事。私が二重構造であるという事が本当の意味で腑に落ちたからだと実感しています。今までの私の延長線上でどれだけがんばっても無理だったのだと。自分とは何か?という世間一般の認識、この大きな間違いに気づき、新しい世界観を受け入れた時、本当のマインドフルネスが出来るだと感じています

| 23:31 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

17/10/14 「南無大師遍照金剛」と「マインドフルネス」の間に

http://www.onedhamma.com/?p=6379

 

法話拝聴いたしました。仏教が大地に染みこんでいる四国で、マインドフルネスとお大師様、涅槃がどうつながるのかを大変わかりやすくお話してくださいました。

 

マインドフルネスとお大師さまがどうつながるのか?

雑誌「プレジデント・ウーマン」に特集されたような、世間で取り上げられているマインドフルネスは、怒りのスイッチをオフにする事や、人間関係がよくなるため、というマインドフルネス。それと日本仏教は深い断絶を起こしている。これを繋げた時に、マインドフルネスが生死の問題を扱えるぐらいにとてつもなく深いものになる。

 

内山老師がおっしゃった「死んでも死なない命」。これを今まで自信をもって言い切れなかったために、生死の問題はどうせ解決しない問題となり、グリーフケアも、愛する人を失った悲しみをお互いに慰め合い、話を聴くレベルでとどまっている。話を聴くこと、慰める事も勿論大事だか、愛する人を失くした圧倒的な悲しみは無くならない。

 

仏教は、もっと深いものであるはず。愛する人は肉体が消えただけで、消えてはいないとわかる。根本的なところで愛する人を亡くした人が救われる。それくらいの力が仏教にはある。

 

本当のグリーフケアは悲しみのないところ、グリーフがない世界へ連れて行くしかない。お釈迦様が言われたその場所は、ニッバーナ(ニルヴァーナ・涅槃)である。お互いに慰めよう、ではなく、悲しみのないところへ行くことが仏教の目的。お釈迦様の提示したニッバーナを指し示すのが仏教のあり方。マインドフルネスで怒りのスイッチをオフにすることも素晴らしいが、そのレベルに留めておくにはもったいなさすぎる。もっと深めていけば、ニッバーナに行ける。

 

マインドフルネスは「何かに気づく」こと。「何かに気づく」ことから、「グリーフのない世界に行く」というのは、話が飛びすぎていて信じ切れない。だから、「怒りを乗り越える」程度の地に足のついたレベルの目的ならば達成できそうに感じてしまう。

 

お釈迦様の最初の教えがマインドフルネスとニッバーナ。マインドフルネスの語源はパーリ語の「サティ」。お釈迦様はマインドフルネス(サティ)を最も重要なものとして扱っていた。八正道の七番目は「正念」(サンマ・サティ)である。


マインドフルネスは最近出てきた正体不明の言葉ではなく、仏教の中心であり仏教そのもの。これを言わないから訳が分からないものになってしまう。正しいマインドフルネスをやればニッバーナに繋がるのである。

 

今怒りに気づいていることと、ニッバーナがなぜイコールなのか?
正しく気づいているとき、今までの意識でもって気付いてはいない。今まで自分だと思っていた世界(シンキングマインド・映画の世界)の延長上で怒りに気づいていては失敗してしまう。

 

我々は二重構造になっている。禅宗的に言うと、「嘘の自分と、本来の自己」。
自分だと思っていたものが嘘で、そうではない別のものがある。マインドフルネスは別の意識のあり方。
正しいマインドフルネスをやっていたらニッバーナが見えてくる。「正しいマインドフルネスがある場所」に気づく。


「私は不動明王である」という言葉は、私たちが二重構造になっていること、そして本来の姿を思い出すために、自分が不動明王であることをビジュアライゼーション(観想)している。

 

私たちの全員がモンキーマインドを持っている。しかし、それだけではない本当の自分のところでしか気づけない。古い世界観のまま、呼吸を見ることは出来ないのである。

 

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今回は第四図、第五図という言葉を使わずにマインドフルネスを完璧に理解できる素晴らしい法話でした。第四図の延長上で平面的に捉えていることで本質が見えなくなっている。私たちが二重構造であるという事実を知ることがどれだけ凄いことなのか、この事実を知ることが出来ていることに深い感動を覚えています。

山下先生の丁寧な解説で日本仏教とマインドフルネスの間の断絶は完全に消え去り、深く繋がりました。世間の「心を強くすること」を目的とするマインドフルネスがさらに深まって、根本的に苦しみから救うことができる、生死の問題を取り扱えるようなマインドフルネスになっていくことを願います」

| 23:33 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/08 第五図に対する「認知的不協和」を越えて

17/10/08 第五図に対する「認知的不協和」を越えて

http://www.onedhamma.com/?p=6374

 

法話拝聴いたしました。

今回は「認知的不協和」という言葉を用いて、なぜ第五図の世界観を拒否してしまうのかを解説してくださいました。

 

認知的不協和とは
人は情報を取得する際、築き続けた信念に合致しないものは選択しない。
信念を崩そうとすると、膨大な時間を浪費したことが認識され、多大なストレスがかかる。

人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感。

 

「世界とはこういうものだ」と思いこんでいるのとは違う在り方が出てきた時に認めることが出来ない。

これまでの自分を正当化するために、現在目の前にあるリアルから目をそらし、ゆがんで認識したうえで正当化する。

いままで築き続けてきた世界観、信念とぶつかるかるものは、最初から存在すら認めない。見たい現実しか見ていないのである。

 

大井先生との対談は「死んだら終わりの世界観を超えて」というテーマであった。大井先生自身が「看取り」を通して、「死んだら終わりではない世界」に触れていたのは間違いない。その大井先生の経験に基づく話を、一法庵の第四図・第五図の世界観をつなげる対談となった。

 

「死んだら終わり」という世界観(第四図)を乗り越えるのは第五図しかない。グリーフケアが絶対に必要だということは、第四図しか存在しないと深く思い込んでいるということである。第四図では悲しみを減らしていくことは出来ても、無くなることはない。しかし、第五図には、悲しみそのもがもう存在しない。

 

愛する人が亡くなったとき、形が消えて、形なき何かが現れて、愛するひとの本当の本質が見えてくる。悲劇の中に聖なるものを感じる。愛する人は肉体を失っただけで、死んでなどいない、とわかる。そのことがわかることが、本当の意味でのグリーフケア。

これは、愛する人を失って、打ちのめされて初めて分かること。話を聞いてもらったり、同じような境遇の人たちと話し合ったりしたところで、やはり愛する人を失った悲しみは無くならない、と。第五図が分かれば、本当の意味で「グリーフ」を「ケア」出来るのである。

 

第四図の「脳が記憶などを司り、この部分がこういう働きをして・・・」という脳科学の話と、私の本質は外(第五図)にある、という事は矛盾しない。別のことを取り扱っているから。第五図の世界観が理解できれば、仏典が理路整然と理解でき、般若心経も唯識も、正法眼蔵も分かるのである。

 

第五図を知れば、「生と死の問題」を乗り越えることが出来る。第四図では、体を感じる事ができなかったが、第五図の私は体に戻り、微細な感覚を感じることが出来る。「第五図の私」を理解をすることで、慈悲やマインドフルネスを理解することが出来る。

認知的不協和によって、たとえ今までしていたことが間違いだと気がついても、今までかけた時間を無駄にしないために間違ったことをやり続けてしまう。「認知的不協和」と「エゴの問題」、この2点によって瞑想もつまずいてしまうので、この2点を乗り越えていくことが重要である。

 

恥ずかしながら、私自身も随分と間違えてきた人生でした。自分の間違いに気づき、手放すとき、どれだけの時間とエネルギーを使って来たことかと落ち込んだ事が何度となくあります。そんな失敗を繰り返しながら、幸運にも一法庵にたどり着いて、真実を知ることができ、本当に幸せです。自分の間違いを素直に認め、間違ったことに執着せず、修正していくことで良い方向へ進むことが出来るのだと感じました。


「認知的不協和」と「エゴ」という、つまずく点、乗り越えるべき点をはっきりと示して下さいました。これからも迷うことなく探求を続けていける喜びを感じ、ワクワクしています」

| 23:39 | comments(0) | - | pookmark |
17/10/01 グリーフ・ケアはもはや必要ではない

17/10/01 グリーフ・ケアはもはや必要ではない

http://www.onedhamma.com/?p=6368

 

朝日カルチャーセンターでの大井玄先生との対談で話題になった「グリーフケア」について更に分かりやすく、詳しくお話くださいました。

大切な人を亡くした人の悲しみをケアしていこう、話を聴いて元気に生きていけるようにしよう、というのがグリーフケア。「グリーフケアが必要ではない世界(第五図)」と「グリーフケアが絶対に必要だという世界(第四図)」が存在している。表面的なグリーフケアは必要ない、本当の意味でのグリーフケアは第四図には存在しないのである。瞑想によって悲しみをだんだん減らしていく、という話ではない。

世間の人たちは、亡くなった人々は帰ってこないと強烈に信じきっている。私とはこの肉体で、脳みそが意識、感情を生んでいる。それが私に過ぎない、と思っている。生まれる前から世界が存在していて、そして何年かの間その世界で生存し、やがてこの世界から消えていくと思っているから死ぬのが怖い。

でも、本当にそうなのだろうか?世界はどうもそういう風に出来ていない。

瞑想によって何を知るかというと、我々の本質は、この世界の外にあるのだということ。マインドフルネスは、外からこの世界を観ている意識のあり方である。

大井先生は、看取り医として患者さんの人生の最期に立ち会ってこられた。医療においては、看取りや認知症は敗北の現場。しかし、大井先生は、看取りや認知症という角度から真理に迫ろうとされていた。医学が敗北したところ、脳みそが壊れた状態の人達と話していく中で、この世界がどう出来ているのか、と。

看取りや認知症は敗北の現場ではない。本当の真理の入口なのである。私の愛する人が消えてしまったつらい現場でありながら、愛する人の本質を知る現場。大事なものがあらわれる、聖なるものに触れる場所。一番大切な人を亡くすことは辛いことだけれども、最も大事なことを学ぶ事ができる。「私が愛した人は肉体ではなかった」と。死ぬことで一番大切なことを教えてくれた。

第四図だからこそ、生と死が成り立つ。死の恐怖から離れられない。しかし第五図は生と死の問題が問題として成り立たない。
私とはこうゆうものだ、という思い込み。死んだら終わり、という思い込み、それを捨てる。

それがわかれば、これからの医療や福祉の目的が変わる。どうやって看取りを大事にしていくか。看取りから人生において大切なものを学んでいく事が目的となっていく。私たちが一番恐れていたものが、私たちを救うものになっていくのである。

私自身、両親とも他界し、介護も経験し、看取りの現場に立ち会う事が出来ました。愛する人の心臓が止まって行く時、肉体は確かに役目を終えたけれども、愛する人は消えてなどいないのだと確かに感じました。最期に一番大切なことを両親は教えてくれていたのだと感謝の気持ちでいっぱいになりました。

第五図を知り、その感覚が正しかったのだと分かりました。そして第五図に触れ、そこには悲しみが存在しない、グリーフケアが必要でない世界だと分かります。

山下先生が「人生の根本的な問題を解決するという志を高く持って欲しい」とおっしゃって下さいました。第五図が私たちの本質であると知ることは、生と死の問題を解決することであり、本当に何よりも大切な事であると感じています」

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17/09/10  「本当の終活」を、今日から始めよう

17/09/10 「本当の終活」を、今日から始めよう

http://www.onedhamma.com/?p=6339

 

本当の終活とは何なのか?

老後の生活費の工面、遺言書の作成、お墓の準備、というレベルではない「本当の終活」を明確に示してくださいました。仏教がおとぎ話でなくリアルに実体験できるものであり、どう生きたらいいのか、なぜ今まで信じきれなかったのかを分かりやすくお話してくださいました。

 

阿弥陀様は西にある浄土にいらっしゃる、地蔵様は南の浄土にいらっしゃる、という話は平時には役に立つかもしれないが、非常時には役に立たない。苦しいなかで自分を本当に救ってくれるのか分からないのなら、本当の安心にはならない。阿弥陀様やお浄土をどれだけ想像しても、絵に描いてみてもそれは想像上の話。あるのかないのか分からないし、すべてが嘘かもしれない。現代では、もはや圧倒的に信じない人が多い。信じたくても信じられないのが現状。

 

今までのようなフィクションではなく、お浄土は本当に存在すると実感しない限り、これ以上仏教が続くのは無理である。お浄土があると本当には思えないから、お浄土があるという前提で成り立っている葬儀が意味を持たなくなった。その結果、葬儀は何のためにやっているのか?という疑いが出てくる。お寺を支える意味も失われて行く。

 

しかし、お浄土は実在し、確かめることができるものなのだ。では、お浄土をリアルに体感するにはどうしたらいいのか?お釈迦様は最初から「マインドフルでいなさい」と教えて下さっている。それが浄土の実在をリアルに実感する急所。我々には、日本仏教がこれまで持たなかった秘密兵器である「マインドフルネス」があり、お浄土が存在するのを本気で確かめることが出来る。

 

第四図そのものが頭の中のフィクションに過ぎない。第四図的世界観に立っている限り、この世界のある場所にお浄土が存在しているのだろうと理解してしまう。同様にマインドフルネスも、第四図の私の「気づき」と理解すると、認知の歪みや行動の歪みが苦しみを生んでいるのだから、認知を修正し行動を正せばいい、となる。

 

これは頭で考えたら全部もっともな話だが、これを自分に当てはめて実際にやってみたら、出来るわけがないということが分かる。認知の歪みをどうすることもできず、慈悲を育てることもできない私。認知の修正も慈悲をは絶対に出来ないと見えてきてしまう。患者の立ち位置に立った時に今までの頭だけの理解が全部崩壊する。

 

これまで、第四図でお浄土や慈悲、マインドフルネスを理解しようとしていたが、すべて間違いで、何故ならこれはすべて第五図の話だから。仏教で何を繰り返し説かれてきたかというと、全部第五図の話なのである。

 

正法眼蔵の「唯仏与仏の巻」の中の「現身度生」という言葉がある。

普通は「救う観音様」と「救われる衆生」が二つに別れで存在していると理解してしまう。二つが分かれている限り観音様は本当にいるのか?という疑いから離れられない。観音経を表面的に読むと、ピンチになった時に観音様が現れてくれて救ってくださると書いてある。私がいて観音様がどこか遠くにいて、観音さまが助けてくれる、という構図は第四図の理解。

 

そういう構図である限り、観音様がいるという確証など得られるわけがない。観音様がいたらいいよね、という希望的観測の話になって、観音様がいないかもしれないという不安から逃れられない。そのうちいるわけないとなり、観音様がいるという前提のもとに成り立っていたすべての仏教的儀式が崩壊してしまう。

 

我々が第五図としてあらわれることが現身であり、それが衆生を救う(度生)。第五図としての私はすでに救われているから。第五図がお浄土であり、苦しみないが一切ない世界。極楽は苦しみが成り立つ条件がない世界であり、自分とは一切関係ないから他力である。自力は四図の中に生きている人の力に過ぎない。

 

本当の終活は、このようなことを本当に知って生活の中に入れていく。生涯の終わりに、一片の疑いもなく信じられるようになること。そうしたら、不安なしに残りの人生を生きていける。

今の終活とは将来の計画をたてるといっても、80や90才までの毎月の生活費を工面、入院保険やお墓の準備とかのレベル。ではその先、どうするのか?肝心かなめの準備はしてない。圧倒的に大事な事の準備がないし、そもそも準備ができるとは思っていない。

 

 

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私は一法庵との出会いのおかげで、本当の終活が出来て、幸せです。ワンダルマ・メソッドによって、死んでも死なない命を確信することができたからです。また、私自身だけでなく愛する人や大切な人も「死んだら終わり」ではないということが分かり、大きな安心に包まれながら日々の生活を送ることが出来ています。

この世界観の転換により、どれだけ人生が変わったか、この恩恵ははかり知れません。仏教はフィクションではなく、本気になって求めていけば確かめられる、実体験できるという力強いメッセージを感じました。

本当の終活が、介護や医療の現場にも広がっていくことを願います。9月30日の新宿朝カルでの大井先生との対談もとても楽しみにしております。

いつも素晴らしいお話をありがとうございます」

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17/09/03  「第五図」が「お浄土」だから、その実在はもはや疑えない

17/09/03 「第五図」が「お浄土」だから、その実在はもはや疑えない

http://www.onedhamma.com/?p=6173

 

京都の法然院でのマインドフルネスの会に参加させていただきました。

あの最高の場所で法話を拝聴し、みなさんと坐ることができたのは本当に幸せな時間でした。

改めて法話を拝聴させていただきました。今回初めて参加された方にも、今この日本で、マインドフルネスをめぐり何が起こっているかが分かりやすく伝わり、本当のマインドフルネスに興味を持って下さったと感じています。

 

マインドフルネスはアメリカ生まれではなく、インドのブッダガヤの菩提樹の木の下生まれ。
マインドフルネスはお釈迦様のお悟りそのものであり、お釈迦様が菩提樹の木の下でみた風景。

 

2500年前のインドで生まれたものが、その後、2つの道に分かれて、1つの流れは最終的にアメリカに到着して、現代の状況に合わせて、セラピーや社員研修、教育の現場で使われて、この現代的に応用されたものが、ここ数年で日本にやって来てブームを起こしているマインドフルネス。

 

もう1つの流れが東アジアから極東の日本にたどりついたもの。二つの流れのなかに、どちらも2500年前のインドのブッダガヤで発見された真理が含まれているのなら、一方の流れのマインドフルネスが日本に来たとき、「ああ、久しぶり、懐かしい」と抱き合うはずのものが「うさんくさいやつ」となって相容れなくなっているのが現状。

 

マインドフルネスは、パーリ 語のサティの英訳で、それを漢訳すると「念」。

これは「念仏」の「念」であり、浄土系の仏教とマインドフルネスは関係ないとは言えるはずがない。マインドフルネスは曹洞宗の坐禅の一番のエッセンスであり、最も聖なる言葉「非思量」とイコールでもある。

 

一見繋がらないものが実は深くつながっているにも関わらず、現状では禅宗はマインドフルネスを否定しているし、念仏とマインドフルネスをつなげて考えている人もいない。「念仏」や「只管打坐」を裏切ってマインドフルネスを選ぶというような、相反するものではない。しかし、今までのマインドフルネスの理解なら、お互いに相容れない。ではどうすべきか?マインドフルネスのさらに一歩進んだ理解が必要である。

 

今までのマインドフルネスは「私が何かに気づく」という理解。これでは思考の一部であり、思いの手放しをする坐禅において、思考はダメなものだから、マインドフルネスはダメとなってしまう。しかしこれは100%誤解である。

マインドフルネス(=サティ)は仏教そのものであり、お釈迦様の最初に四諦と共に説いた八正道の七番目の「正念」として伝えてくださっている。これは正念とは、正しいサティ(マインドフルネス)であり、これによりすべての人生のゲームが変わり、苦しみを根こそぎ乗り越えることが出来る。

 

サティ(マインドフルネス)とは自分の外に立っている意識そのもの(第五図)。その時にのみ、判断なしに、好き嫌いなしに、正しいものの見方ができる。

仏教史において大問題になってきた「自力」と「他力」。何故この問題がでてきたのか?「私とは何か?」という問題を探求していくと本当の私とはこの世界の外にいることを発見をした、いままで自分と思いこんでいた「私」の外の存在の力を「他力」と呼んでいるだけ。第四図の自分としても、外なるもの(第五図)としても存在している、という私の二重構造が見えて来て、仏教史のある時点でそれが大問題になった。他力は第五図のあり方。第五図には苦しみが根こそぎない世界であり、それが「浄土」。苦しみがないとは、生死の苦しみがない。なぜか?第五図の私は死なないから。第五図の私が本当の私だから。では、第四図の私はどう生きたらいいのか?その「第五図の私」にひたすら帰依をしていく。それが「南無阿弥陀仏」。

 

 

 

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京都の法然院という神聖な場所、法然上人が念仏を唱えていらっしゃった、日本の風土のなかになむあみが、しっかり溶け込んでいった場所で、山下先生の法話が拝聴できたことに大きな感動と喜びを感じました。庭の美しい木々や、蝉の声、吹き抜ける風、気候もちょうど良く、最高の環境でした。お釈迦様の残してくださった正統的な方法によって、京都を全身で感じ、法然上人を感じた深い瞑想が出来ました。このような素晴らしい会に参加させていただいた事に感謝したします。本当にありがとうございました

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17/09/02 「自力」と「他力」と「マインドフルネス」と

17/09/02 「自力」と「他力」と「マインドフルネス」と

http://www.onedhamma.com/?p=6171

 

西山浄土宗のお寺で、「マインドフルネス」と「念仏」、「自力」と「他力」の話を、第四図と第五図によって丁寧に分かりやすく伝えてくださり、さらに理解が深まりました。

 

マインドフルネスは、パーリ語「サティ」の英訳であり、中国語訳は「念」。「念」は「念仏」の「念」なのだから浄土系仏教のコアそのもの。浄土系の仏教の人たちもマインドフルネスを無視することができないはずだが、ピンと来ていないのが現状。

 

マインドフルネスは、日本仏教の外から二回の波によってやって来ている。一回目はオウムの事件の直後くらいから、テーダワーダ仏教として日本に入ってきて、そこでは原語の「サティ」か「気づき」という言葉が使われた。そして二回目は、ここ4,5年にアメリカから入ってきて、英語のマインドフルネスという言葉が使われた。

 

残念ながら、マインドフルネスは日本の仏教とは関係ない、伝統の外から来た「うさんくさい」ものと疑いの目を向ける傾向があるが、それはまったくの誤解であり、本当のマインドフルネスが分かったらそんな態度は取れない。何故ならマインドフルネスはお釈迦様のお悟りそのものだから。

 

曹洞宗の一番大事な言葉は「非思量」であり、非思量とは何かを突き詰めて行くと、それはマインドフルネスとなる。

禅宗の人たちは「坐禅と瞑想は違う」という表現をするが、これはどういう背景があるのだろうか。

 

マインドフルネスでは「気づき」である。「思いの手放しをする坐禅」をしている禅僧にとって、気づきは思考に所属し、それは捨てるべき対象となる。その結果、マインドフルネスなど捨ててしまえ、となる。第四図の中で気づいてもそれは確かに思考(シンキング)で、禅宗の人にとって手放すべきものである。

ではマインドフルネスとははたしてそんなものだろうか。

 

ヴィパッサナー瞑想では、あるがままに、好き嫌いなしに、今ここで観察しなさいという。

そしてちょっと努力すれば、ものごとをあるがままに見られると思ってしまう。

しかし、この世界(第四図)のなかで、客観的に、あるがままになど見ることなど出来るわけがない。

たとえば、歩きスマホは危険だというが、すでに私たちの脳内にスマホが埋め込まれていて、私たちはそのスマホの画面を見ているようなものである。自分で勝手に映画を作って、その映画を見ているに過ぎない。

 

お釈迦様はマインドフルネスという秘密兵器を発見し、お伝えくださった。しかしマインドフルネスを、今のまま、生まれてきた価値観の中で理解することはできない。第四図で客観的に観ることは最初から最後まで出来ない。世界観を変えることとセットである。


私たちの本質は第五図。その本質を避難所として帰依する。第五図は苦しみが根こそぎない世界であり、正しいマインドフルネスでその避難所を見つける。


親鸞上人が「正念すなわちこれ念仏なり」という言葉を残されている。正しいマインドフルネスと南無阿弥陀仏がイコールになる。正しいマインドフルネスのとき、阿弥陀仏の避難所に帰依をしていく。自分の本質が第五図(阿弥陀仏)であり、その本質に帰依(南無)をする。

 

なぜ南無阿弥陀仏と唱えると救われるのか?お浄土は本当にあるのか?避難所があるのかないのか分からなければ、単なるおとぎ話に過ぎない。しかし、その世界を実体験すると、おとぎ話ではなくリアルに存在すると疑いがなくなる。

 

苦しみは第四図にしか存在せず、お浄土(第五図)には苦しみそのものが存在できない。第四図の中でお浄土を探しても永遠に見つからない。苦しみのない世界がどこにあるのか?どうやっていくのか?教えてもらえないし分からないのが今の宗教である。

 

「自力」と「他力」は「自分達がダメだから、他力にすがるしかない」という話ではない。だから「瞑想が自力」で「南無阿弥陀仏が他力」という話でもなく、今までの世界観(自力・第四図)でいくらやってもダメなんだ、ということが見えた。

 

第四図の中の私にとって第五図の私は「他」である。第四図の私は、私ではない、第五図の私が本当の私。本当の私が分かったとき、思い込みの「自分」からすれば「他」としか言いようがない、それを「他力」と言った。

 

 

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南無阿弥陀仏と唱えたらなぜ救われるのか?お浄土は本当にあるのか?

これは多くの方が疑問に思い「あったらいいな」という期待をもちながらも、「そんなものあるはずない」という絶望も同時に抱えているような気がします。宗教が力を失い、おとぎ話になってしまっていたときに、お浄土は実はリアルに存在することを実感できる奇跡を、またもや第四図と第五図ではっきりと示して下さいました。

今までの世界観を捨て、新しい世界観(第五図)として生きる。第四図と第五図の世界観の転換が、どれほど大きなことで、人生で最も重要なことだと分かります。この世界観の転換がなければ、第四図の中では見つかるはずのないお浄土を、永遠に探し続けていくしかありませんでした。先生に新しい世界観を教えていただき、その世界を実体験することで、お浄土は本当に存在していると確信でき、正念が南無阿弥陀仏であることが理解できました。いつも素晴らしいお話を聞かせていただき、本当にありがとうございます。

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