山下良道師法話まとめ

18/05/27 テロを引き起こしてしまった「あの論理」から、23年後に自由になる

18/05/27 テロを引き起こしてしまった「あの論理」から、23年後に自由になるhttp://www.onedhamma.com/?p=6635

 

法話を拝聴させていただきました。
日本に大きな影を落とした、あの23年前のオウムのサリン事件について、なぜあのような事件が起こったのか、そしてどうすればもう二度と悲劇は繰り返されないのかをお話下さいました。

 

そして、あの事件は決して他人事ではなく、私達の身近に、程度は違っても起きているということ。そして、この問題を乗り越えるの鍵がマインドフルネスである事をお話して下さいました。

 

無分別智というのが、日本の宗教シーンでは非常に重要な役割を果たしている。今問題になっている日大のアメフト問題や、1995年3月に起きた地下鉄サリン事件、このあたりが無分別智と繋がっている。宗教は関係ないというスタンスは取れない。

非常に純粋な人達が純粋な素晴らしい目的のために地下鉄に毒をまいてしまった。

 

パワハラとは、パワーを持っている人が影響下にある人に対してハラスメントを行うことである。それは何も特別な人だけの話ではなく、誰しもそれぞれの職場、家庭、学校などあらゆるところで経験すること。

ルール違反だと分かっていても、パワーを持っている人に強制された時にしてしまう、それくらい上からの強制はすごい力を持つ、それも昔はオッケーだったのだが、今は問題になる。だからある人達にとってはなぜこれが問題になるのか分からない。
社会がこういうのがもう嫌だ、という流れが大きくなっているからこの問題が大問題になっている。

 

今までは、間違ったことだとわかってても、チームのために自分を犠牲にしてわざと悪いことをして損をする行為は素晴らしい、という話だった。今までだったら賞賛されたことが、今回だめと言われた。

 

この悪いとわかっていてもわざとする。わざとすること自体が賞賛されるというのはいくらでもある話である。分別と無分別との間がはっきりしなかった。無分別智がはっきりしなかった、ということとダイレクトに繋がっている。

地下鉄の中でサリンをまいたあの事件。

たくさんの人の命を奪う、とんでもないもの、それをやらせたものの正体を見ない限り、先に進めない。
こういうことをおこさせたある力、ある論理。満員電車の中で傘の先でサリンの袋を刺さざるを得ない論理。

ある種のルールの中でどうしても逃げらす、そうせざるを得ない状態になる。死刑判決を受けている実行犯の人達は、そうせざるを得ないところまで追い込まれていった。

この詰め将棋を絶対に詰めさせない。この論理自体を壊さないと、私達全員が追い込まれてしまうのである。

この論理を純粋に極端に使うということはなかった。この論理はあの教団だけの論理ではない。宗教の内側にあるものである、宗教の論理である。

 

この論理とは何か?
マインドフルネスによって分別から離れるのが仏教の基本。
「マインドフルネスなしに、分別を離れて悟りに世界に入る」ということが最終的にサリンをまかせることになる。
「サリンをまくことが悪い」ということも、それは分別に過ぎないから

いろんなことを考えても分別に過ぎない、それを捨てないと悟りの世界に行けない、とグルに言われたら、グルの前ではすべてを捨てなければならない。捨てることでグルと一体化するために。

 

この論理を悪用したらそうなる。分別を否定するのがかっこいい。それが宗教の世界にはある。世間においては分別が正しいもの。分別=世間となり、世間を乗り越えるということは分別を乗り越える、という論理を使う。常識的な生き方を否定するのがかっこいい。分別は世間的な価値観。そういうものを全部捨てて、悪いふりをしたりする。このノリの宗教者はいくらでもいる。常識的なブレーキが全部分別となり、捨てろ、となる。この論理がある限り、この論理を極端に悪用する可能性はある。

この論理を乗り越えるためのマインドフルネス、もう二度とあの悲劇を繰り返させない。あの論理を無効化する。無効化するのかマインドフルネス。

 

仏教の本当のところ、悟りを理解するのにマインドフルネスはどうしても必要である。それは八正道をみても明らかである。その鍵が七番目の正念であり正しいマインドフルネスである。

不戯論も残り七つがあった上での不戯論である。不忘念が八大人覚の鍵。「分別から離れたところに証(さとり)がある。」

世間における分別はいいこと。物事を判断する。仏教では分別はネガティブな意味となる。

頭の中のグルグルした思考をリアリティだと信じてしまう、すなわち映画の世界が分別であり。ここから離れたところに証(さとり)がある。


この分別を離れる手段として念(マインドフルネス)がある。
今まではこの念がはっきりしてなかった。

マインドフルネスだけが唯一分別を離れる方法。
分別の主体はシンキングマインドであり映画プロヂューサー。マインドフルネスの主体はシンキングマインドと違う。お釈迦様が好き嫌いなし評価なしにといったのは、主体の違いに気づきなさい、ということ。

マインドフルネスの主体はこの世界には所属しない存在として在る。この世界に所属しないからこそ、世界のすべてのものを起こったことをあるがままに見る。

 

マインドフルネスがないまま分別をはなれて悟りに向かうとなると身体に戻ればいい、シンキングを止めて無意識になるのが悟りだ、となる。

念(マインドフルネス)がはっきりしなくて、分別を離れるのがかっこいい、反道徳的なことをしたりして分別にとらわれない。邪悪なグルが現れて、分別だ迷いだと言われたら、それを離れて、それを実行するしかない。そういう風に悪用されたら詰め将棋が詰んでしまうのである。

 

マインドフルネスは智慧でもあるから、サリンをまくことはあり得ない。分別を離れたところにまったく違った主体があり、所属していない智慧である。そんな智慧が地下鉄でサリンをまくはずがないのである。

マインドフルネスによって23年前にあの教団が使った論理を乗り越えることが出来る。この論理を打ち破る唯一の対抗手段なのである。

山下先生が、1995年のオウムの事件に衝撃を受けて、教団が使った論理を乗り越えるのはマインドフルネスしかないとマインドフルネスを学ぶために、すべてを捨ててミャンマーに旅立たれていたというお話を拝聴し、胸が熱くなりました。
宗教の論理を悪用して、サリンをまかざるを得なかった。その詰め将棋を二度と詰めさせないという強い思いに感動いたしました。

純粋に一生懸命に解脱、悟りを目指していたのに、その悟りがなんなのか分かっていなかった。そしてそれはマインドフルネスなしに到達することが出来ないのに、それが決定的に欠落していた。
日本仏教も「念」の解釈が曖昧であり、シンキングを止めて身体に戻るというレベルにとどまっていた。

グルがその論理を悪用して、良心や常識までもそれは我だから捨てろ、と言われる恐ろしさ。これは決して他人事ではありません。

私にとってもグルや目上の人が絶対の時代があり、我を捨て去ってすべてグルに従うことが修行だと思い込んでいました。

宗教にマインドフルネスが欠落していたことで、ある論理を極端な方向に進むことであのような悲惨な事件が起きた。でもその論理をようやくマインドフルネスによって乗り越えることが出来ました。そして、マインドフルネスの智慧によって、二度と繰り返されることがなくなります

 

このお話は日本全体を変えていく、あの悲しみを乗り越え、そして繰り返さない。マインドフルネスがあれば大丈夫。そんな安心の中、これからみんなで光の中へ進んでいくのを感じています。

23年前のあの事件とともに、私自身に起きた出来事もスッキリと理解することが出来ました。

今回も素晴らしいお話を聴かせていただき、ありがとうございました

 

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18/05/13 「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論

18/05/13 「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論

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法話拝聴いたしました。「八大人覚」を丁寧に解説してくださいました。

仏教では慈悲と表現し、キリスト教ではアガペーと表現するもの。言葉が違うから、指しているものも違うのではなく、実際にリアルな慈悲の中に入っていくと不思議な世界が見えてくる。その世界は、仏教限定ではなく、世界中の誰もが入れる世界。だから、違う伝統のなかで、違う言葉の表現を使って同じ世界に入っている。

キリスト教の伝統のなかで、2000年かけて考えてきたこと。とてつもない数の人達が、とてつもない時間をかけて、たっぷりと考えてきたこと。それがイエス様が言われる「わたしはこの世に所属していない」という言葉。

「所属していない」ということを入れるとすべての謎が解ける。初めてマインドフルネスやヴィパッサナー。深層意識や表層意識、微細な身体などすべて整合性がつくのである。

「所属していない私」を知るためにはある一つの方法がどうしても必要。その方法がないとそこに行けなくて分からなくなってしまう。

牢屋に閉じ込められている私達が、そこから解放されたとき、広々とした世界を経験する。一法庵の部屋の中に閉じ込められた人は、一法庵の中しか知らない。しかし、一法庵を出て、太平洋を観ている人は、一法庵の風景と太平洋の風景の両方を知っている。一法庵の外に出ることを拒否して、外を観る誘いに乗らないと、太平洋を観る機会を失ってしまう。

八大人覚、お釈迦様の遺言の中で八つの大事な事を道元禅師が話された。八大人覚とは
1、少欲
2、知足
3、楽寂静
4、勤精進
5、不忘念
6、修禅定
7、修智慧
8、不戯論

少欲、知足は、もっともっという生活から、今この瞬間にに満足する生活にシフトしていくということ。しかし、ただ我慢するというのは違って、そのなかで、寂静というものを感じ、それを楽しむようになる。瞑想の中で入っていく時に感じるすべてが満たされている感覚。そして、それを感じたならば、精進に努める。世間の人がもっと欲しいとがんばっていく生き方ではなく、少欲知足に切り替え、寂静を楽しむ。その方向に精進しよう、ということである。

世間の生き方とは何か。現在の学校制度のなかで勉強は何かをもっとつかむための手段であり、その流れは、会社に入ってもさらに強まる。少欲知足とは真逆の生き方である。

 

そうではない生き方、少欲知足で、寂静を楽しむ。念(マインドフルネス)を忘れない。正しいマインドフルネスを守る。精進すると、世間の人の以上のエネルギーにある方向に入れていく。それは「正しい念を守る」ということ。

そうなったときに不思議な出来事が起こってくる、勝手に禅定に入っていくのである。そして智慧が生じ、その智慧を深めていく。禅定に入ることにより、まったく新しい世界を知る。そのがらりと見えた風景、その理解が智慧である。

 

最後は不戯論。

「証の分別を離るるを不戯論と名付く。究尽する実相はすなわち不戯論なり。」

八大人覚の最後なので、いわば付加的な注意ではない。接心などで、おしゃべりしてはいけない、というレベルの話ではなく、一歩踏み込んでいるのが道元禅師。

分別をはなれると証(さとり)になる。

 

世間においては「分別」はいい意味、仏教になるとネガティブなニュアンスになる。世間では「分別」は物事をきちんと理解しているという意味だが、仏教の領域では別。

第四図の中の世界は自分の思いが作った世界。勝手に映画を作って。我々の苦しみは映画の世界をリアルだと思い込んでいるところが苦しみの原因。その映画から離れたところが「証」つまりさとりの世界である。これが不戯論である。

念を忘れるな、ということは、分別を離れて証に行くために、念すなわちマインドフルネスが必要だということ。

不戯論を、「分別を離れて証に行ける」とはっきりと言えるのは「所属しない」ということが分かって、ようやく全部説明できる。第五図も「所属しない」で全部説明できる。

 

分別の世界を離れる。離れる手段が「念」。でもこの「念」がはっきりしなかったのが日本仏教の歴史。

では、念がはっきりしなかった結果、マインドフルネスによって分別の世界から離れることができなかった時、何が残るのか。

頭の中のグルグルから外へ出るために、どうしたらいいか?身体に戻ればいい、となる。思考の世界、シンキングを止める方法は身体。身体を使ってシンキングを止める。

 

この肉体を極限までいろいろな形で追い込んでいく。徹底的に身体をいじめ尽くして、寝る時間や食べ物を制限する方向性と、この身体はシンキングから離れているから、身体を坐禅の姿勢にすればいいんだよね、という考え方。ここにはマインドフルネスはない。マインドフルネスがなければこの二つの方法しかない。

道元禅師はこんな大事なお経がなぜ無視されてきたのかと、叫んでいる。こんな一番大事なことを誰も知らない。どうしてこうなってしまったのか、と。それを13世紀の半ばに叫んだのだけど、後に残された人達は分からなかった。この遺言を道元禅師そのものだと思って大事にして、守ろうとしてきたのに、理解できなかった。

 

念の重要性が分からなかったのは、なぜ念に離れる力があるのかが説明しきれなかった為。普通のシンキングマインドが気づくなら、その気づきも、シンキングマインド。つまり分別となる。マインドフルネスって分別ではないのか?分別は離れるべき対象であって、手段ではない、となるのが禅僧たち。そして、第五図が単なる肉体とされた。

この念の主体。マインドフルネスの主体がこれが今までの自分だったら分別である。マインドフルネスの主体がはっきりしなかったから、普通のシンキングマインドと誤解されていた。マインドフルネスの主体はこの世に所属していない何か。第五図のポイントは肉体に帰れということではなく、この人は第四図に所属していないことを示している。

第五図を肉体ととる人達は、肉体を動かしている「御いのち」があるという。


それは波と水に喩えられる。大乗仏教では、「波は波のままでよい。本質は水だから。波と水は一つ。それが、坐相という波さえ整えば、そこに水という絶対が顕現してる」と考える。これだと表面的な捉え方で純粋に水を経験することがない。

波という形の中に水という本質がある。水は波には所属していない。これは第四図の私の本質が第五図の私であり、第四図に所属していないということと同じである。波という形の材料は水だけれど、波という形には属していない。水がなければ波ができないように、第五図の私が本質であり、第四図の私は第五図の私との二重構造を生きていて、第五図の私がなければ第四図の形ある私は成り立たない。

 

色と空はまったく別のものである。第五図は肉体ではなく、形のないものであり、私達の本質であり、所属していない。同時にこの世界に所属している。
所属していない私が同時に所属している私でもある。

だから色即是空空即是色である。空の在り方を経験するのはマインドフルになったとき形のない私が同時に形ある世界を生きている私でもある、これが第六図。

 

道元禅師は「究尽する実相はすなわち不戯論なり」とおっしゃっている。

徹底的にこの世界の在り方を極めていったときに見えてくるのがこの不戯論。世界の本当の姿はこうなっているんだよ、という話。それを保証するのがマインドフルネスであり、マインドフルネスに出会ったときに分別を離れる。マインドフルネスの主体はこの世界に所属していないから分別を離れることができるのである。

これだけ重要なことを叫ばれながらも伝わってこなかった。
怠けていたわけではなく、念の主体が分からなかった。
マインドフルネスを使って証の世界に行ける。

 

たいへん丁寧に八大人覚を解説していただき、しっかりと理解することができました。いままでもやっとしていた「精進」の意味がよく理解できた事が本当に嬉しいです。以前は怒りをなくそうとする努力であったり、偏りなく観ようという努力であったりと、第四図の私では出来ないことを無理にやっていた、それが正しい努力だと思い込んでいました。

イエス様のおっしゃった「私はこの世に所属していない」という言葉により、マインドフルネスやヴィパッサナー、第四図第五図、般若心経、そして八大人覚までスッキリと理解する出来ました。お釈迦様と道元禅師がどうしても後世に残し伝えたかったこと、イエス様が残された重要な言葉を、長い年月を経てこうして深く教えに触れて理解することが出来、感無量です。

今日も素晴らしいお話をありがとうございました

 

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18/05/04 「わたしがこの世界に所属していない」ことがすべての鍵だったのか

18/05/04 「わたしがこの世界に所属していない」ことがすべての鍵だったのか

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「法話拝聴いたしました。最後の決め手になる事を発見し、これからのはっきりと行き先を示して下さいました。

今まで一法庵では、第五図、青空、リリーフピッチャー、などいろいろ表現してきたが、なかなか正確には理解されないこともあった。今回、イエス様の「私はこの世に所属しない」という言葉によって、誤解のしようがないほど正確に表現されたように思います。

たとえていうと、犯行現場には、指紋、足跡など、山ほどの証拠が残されている。動機も重要な要素。それをもとに、犯人は一体誰なのかを探ってゆく。真犯人はAさんだが、警察が現在捜査している犯人候補は、肝心のAさんではなく、BさんやCさんやDさんのみ。しかし、それらの犯人候補は、残された証拠との整合性がつかない。動機を論理的に説明することが出来ない。それに対して、真犯人のAさとは、すべてのものが一致する。今まで整合性がつかなかったことが、きれいに整合性がついてしまう。

 

我々の瞑想において、その真犯人とは、「所属しない」という話。第五図、二重構造、青空、が犯人ではないということではなく、まだ決定的ではなかった。誤解の余地が少しだけ残されていた。「所属しない」ということは、誤解の余地が入らない。マインドフルネスの説明として上げられる、「評価なしに観察する」という証拠と見事に整合する。

 

「マインドフルネスとは、評価なしに観察すること」。そういうことを我々は散々聴いてきたが、やはり最後のところで分かったようで分からず、マインドフルネスの本質が何なのかわからないでいた。新聞雑誌で紹介されるような、マインドフルネスの記事を読んでも、なんか肝心なところが抜けていて、最後のところに誤解の余地があった。マインドフルネスについて、どうしても完璧に納得できていなかった。そういう状況のなかで、「所属しない」ということがはっきりすると、最後のもやもやがきれいさっぱりなくなる。

第五図に対する誤解や、マインドフルネスに対する誤解を最後にぱっさり切れるのが「所属しない」ということである。

 

テーダワーダの瞑想は心の分析をアビダンマを通して学んだあと、実際の瞑想で確かめていく。心を観察し、心の知識を深めていく。これが当たり前になっている。しかし仏教の伝統があったとしても、それをやらない伝統がある。

たとえば、禅寺にゆき、坐禅についての説明を受けたとき、坐相についてが95パーセントくらいの時間が費やされて、残り5パーセントが心について少しだけ言われる。心については、心に浮かんだものを、すべて流していきなさい、ぐらいしかなく、量からいったら圧倒的に少ない。心についてタッチする必要がないから、わざと触れていない。

 

心の分析、観察することが、オーソドックスな仏教の基本線である。それに対して、禅は何をしているかというと、骨組みと筋肉で狙っていく、という考え方。そこには心は一切入れない。筋肉と骨組が出発点のはずなのに、そこで終わってしまう。身体の坐相を整えるだけで十分だ、坐相を整えればすべてOKだという世界観なのである。そこでは当然マインドフルネスは出てきようがない。マインドフルネスは観察することであり、観察すること自体が意味がないので、マインドフルネスに価値など感じない。

どうして、ここまで違ってしまったのか。

 

これは第五図の解釈が違っている。第四図は思いのぐちゃぐちゃの世界で、これが苦しみの原因、という点では同じである。しかし、第五図の坐禅をしているひとは、単に「身体」を現していると解釈している。第五図の身体は思いのぐちゃぐちゃから離れている。肉体は思いを手放しているから身体に帰ればいい。身体が坐禅を組むと御いのちを顕現している、となる。そこには、アビダルマもマインドフルネスも般若心経も入ってこない。仏教のいろいろなものと繋がらない。何よりも「所属していない」とは繋がらないのである。この解釈だと身体に所属している事になるから。思いからは出ているかもしれないが思いを切り取った物質的なものであり、そこには「所属していない」とは出てこない。

 

私たちは評価、好き嫌いなしに判断することは出来ない。私自身の心が好き嫌い、判断そのものだから。そういう心が呼吸を見続けるのは心の性質上無理なのである。こころは動き続けるので。

普段の心の在り方と、それとは全然別なものの二つがある。この二つのチェンジすることが、十字架の上の死と復活である。何かが死なないと何かが生まれてこない。

 

今までの私と、そうではない私。瞑想はこの転換である。
「第四図の私」と「第五図の私」が二重構造になっている。
第五図の私は誰なのか?

第四図の私が自分だと思ってきたけれど、マインドフルネスの主体は第五図。しかし、まだ最後のところがはっきりしないところがあった。

 

「私は所属していない」というイエス様の言葉により、はっきりとした。
第五図の私は第四図に所属していない、全然別次元の私である。
私は一方では第四図の中で形を持って生きている、同時に第五図の存在でもある。第五図の私は第四図に所属していない。第四図の形ある世界には存在していない、形ない存在。

イエス様は人の子であると同時に神の子である。
イエス様は二つの次元をごっちゃにすることはなかった。


ごっちゃにするということは、そこから逃げること。十字架上から逃げずにそのまま殺された。イエス様は完全に人の子であった。そして3日後に復活した。それは神の子であったから。神の子であるイエスはこの世界に所属してない、だから殺されてもかまわない。第四図でどんなひどいことが自分に起こってもそこには所属していないからかまわない。第四図の中で奇跡を求めてしまうのは、第四図に所属していないということを納得していないからである。

好き嫌い評価なしに観察するということがマインドフルネスの定義。これを本気でやるならば、この世界に所属してないと納得しない限り出来ない。評価なし、好き嫌いないに観察するとは神の眼である。それを仏陀が言われたのはあなたは神の子だ、神の眼に立て、ということである。

 

マインドフルネスは第四図に所属している限りは出来ない。とんでもない話だが、それをしろとお釈迦様が言われたのは、あなたはこの世に所属してない、そういう自分を自覚しなさい、ということ。

「この世界に所属していない」ということが真犯人である。そうすると、マインドフルネスやヴィパッサナーが残した証拠とすべて整合性がつく。「マインドフルネス」、「評価なし好き嫌いなしに観察する」ということと「この世に所属していない」ということが同じ事を言っていることが分かる。

 

ヴィパッサナーでサンカーラを浄化するとはどういう事だったのか。
マインドフルネスをするということは、この世界に所属していないということを自覚すること。そこに立つことで初めて本当の観察が出来る。汚れのないところに立って、汚れのある心を観る。そしてこの汚れは幻想だと分かる。本当の私はこの世界には所属してない。これがサンカーラを浄化するという意味。

 

本当にマインドフルになったときに、この世に存在していないということを経験できる。第五図を本当に理解するためには、マインドフルネスを経験しないと無理なのである。

第五図の本質は「所属していない」である。第五図で坐禅している人は形があるものではない。はじめに身体に帰って、微細な身体に変わり、慈悲(アガペー)を通って、この所属していない何かになっていく。イエスキリストは崇拝の対象ではなく、向かうべき対象なのである。これですっきりと整合性がつく。

 

イエス様が「私はこの世に所属していない」という言葉と内山老師の第四図、第五図、マインドフルネスが繋がり、本当に感動しています。真理というのは宗教を超えたところにあるのだということがよく分かります。

そして、イエス様のそのお言葉、お釈迦様の残されたサティを理解するために、分からなさを抱えながら、何千年もの時間をかけてその事を考えてきた。そして、その謎がついにスッキリと誤解の余地なく解けた。仏教とキリスト教、二つが合わさることによって。

今までの膨大な蓄積がようやく花開いた瞬間を見たような気がして嬉しいです。真理を探究していくことの楽しさを日々感じて、ワクワクしています。これからの行き先もはっきりとして、ますます、この光の中のこの旅が楽しくなってきました。今後ともご指導をよろしくお願いいたします

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『私たちはどこへ向かうのか?』 柳田敏洋神父の講話 

『私たちはどこへ向かうのか?』 柳田敏洋神父の講話 

2018(平成30)年 青空の黙想リトリート in 上石神井黙想の家 柳田敏洋神父の講話を文字起こししたものです。

 

http://www.onedhamma.com/?p=6580

 

はじめに

 

昨年の4月に、良道さんと言うふうに呼ばせて頂きますけども、良道さんと松田神父様の、ここでの1泊2日のリトリートがありました。その時初めて直接に良道さんとお会いして、お話しすることができました。私もインドでヴィパッサナー瞑想を体験した後、自分なりにキリスト教の枠の中で「キリスト教的ヴィッパサナー瞑想」と勝手に自分で名前を付けて、ヴィパッサナー瞑想を行っていました。

 

そういう背景から良道さんとお話をしていると、結構馬が合うというのですか、気が合うというのですか、同じ問題に直面して、どうこれに立ち向かっていったらいいのか、どう乗り越えて行ったらいいのか、こういう問題意識、方向性が重なっているのを感じました。それ以来、メールの遣り取りを含めて、かなり密な関係が出て来たかなと思います。

 

その一つの結実が、この中にもご参加下さった方があるかと思いますが、2月3日に新宿の朝日カルチャーセンターで行った、良道さんとの対談です。沢山の方が詰めかけて下さって、非常に実りの多い対談になったのではないかと思います。

そういう形を受けて、今回また4月に青空リトリートがここで行われることになったのですが、今回はもう少し日数を増やしてより本格的にしようということになりました。

 

それが、今私たちが行っているリトリートですが、まあそれは私達がすでに良道さんが行っておられる「二重構造に目覚めて、エゴの私を見つめているもう一人の私に目覚めて、現実世界が映画の世界であることを見抜いて行く」

こういうために取り組んでいるのだということですね。

 

私は以前から、エゴの私が、祈っても、祈っても、結局エゴに留まっている限りは、エゴの世界を突破した祈りの世界に入れない。こういうことを非常に強く感じていました。そして、言葉遣いが違うとか、アプローチの仕方が違うとか、解き明かすための見取り図が違うとか、そういうところがあっても、良道さんと丁寧に話していくと、中身としては「本当に重なるところが多いなあ」ということを感じました。

 

 

そこで、今からの時間は、私なりに「私たちはどこへ向かうのか」というテーマでお話することが出来たらと思います。どこまでまとまりのある話になるか分からないのですが、一応、このテーマでお話をしていきたいと思います。

 

そこで良道さんの法話の中で、たびたび「謎のX」という言葉が出ていますが、私達にとって「『謎のX』とは一体何か。」 それはキリスト教の中でも大きなものだと思います。私たちはさしあたってキリスト教の枠の中で、それを神とかキリストとか呼んでいます。私はキリスト教のカトリックの神父ですから、そのような立場から「謎のX」に向かって自分なりの歩みを続けていく。そのような取り組みの中で、私なりに気づけたことをお話していきたいと思います。あまり一概に仏教とキリスト教というふうに言うと、良道さんにまた叱られるかも分からないのですが、一応私はキリスト教の枠の中でお話していきたいと思います。

 

私たちの向かうべき神はアガペである

 

キリスト教の人は日本では少ないんですが、世界全体を見たら非常に多い。そして、やっぱり多くの人たちが、映画世界とかあるいは劇場世界の中でキリスト教を生きている。それは非常に残念なことではないか、そういったことを強く感じています。

 

そこで、方向性と言いますか、キリスト教が何を目指すのか、どこに向かおうとしているのか、そういったところを含めてマインドフルネス瞑想を、どんなふうに私達が取り組んでいったらいいのかについてお話が出来たらと思います。

 

仏教とキリスト教という観点で言うと、ある意味でキリスト教は方向性が非常にはっきりしている。これは相対的なものだとは思いますが、そう言えると思います。それはご存じのように、神を信じていて、またその神は、父・子・聖霊という三位一体の神です。特別な神をキリスト教は信じている。そこに非常に大きな枠があるということですね。

 

私たちは、本当に一言で言うならば、「私達の人生は神に向かう人生だ」と言えます。じゃあその「向かうべき神とは一体何ですか。どのような存在ですか」ということについては、今、手元に聖書を持ってきていますけれども、聖書の中の新約聖書のヨハネの第一の手紙の4章16節に「神は愛である」と書いてあります。

 

ギリシャ語が原文ですが、そのギリシャ語では、「神はアガペである」という言い方です。つまり、キリスト教徒にとって神という言い方はいろいろありますが、最終的に「イエス・キリストが伝えようとした神とはアガペである」こういうところにキリスト教の神は基づいています。

 

じゃあ、「アガペとは何ですか」と言うと、皆さんもアガペという言葉をどこかでお聞きになったことがおありと思いますが、ギリシャ語で愛を表す言葉です。ギリシア語で愛を表すのに、大まかには4つあると言われています。

 

皆さんが一番よく聞かれるのは、エロスという、性愛と訳されたりするものです。何か「自分がフィーリングで好ましいと思うものに魅力を感じてひかれていく」こういう愛ですね。それをエロスとギリシャ語で言います。

 

次に、友愛と訳されますが、同じ価値観を共有する者同士の深い結びつき、これはフィリアという言葉で表します。

そして、さらにはお母さんの子供に対する深い愛情、これを表す言葉にストルゲーという言葉があります。

 

こういったエロスとかフィリアとかストルゲーとか、愛を表す言葉がある中で、アガペという愛を表す言葉がある。そして、このアガペというのは、簡単に日本語で言うなら、無償無条件の存在の受容ということです。私達は「愛」というふうに言うと、日本語では、やはり自然に、私にとって好ましく魅力的な、というような、そういうニュアンスがあります。

そこでギリシャ語のアガペを日本語に訳すときに聖書の専門家が「愛」という日本語を当ててしまったので、「愛」としか言いようがないのですが、実際のこのギリシャ語のアガペというのは、やはり日本語の「愛」とはちょっと違うということです。

 

全く無償無条件にその存在を受容する、あるいは肯定する。例えばその典型を、「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に見ることができます。だけど、もともと敵というのは嫌な、嫌いな人、フィーリングで好かない人ということですから、それを「あなたの敵を愛しなさい」というような、日本語に訳しちゃうと、もう凄く人間性を捻じ曲げるような、つまり、無理矢理に好きでもない人を好きであるかのように振る舞うという、自分を捻じ曲げないとできないということになってしまいます。

 

こういうところに、「経典を、どうふさわしい言葉に訳すか」といういつも起こる問題があります。ですから、私は最近言葉としても割と知られてきているので、アガペというギリシャ語をそのまま使う方がずっと誤解がないと思っていて、そのように使っています。

 

そこで、アガペという言葉で、イエスは神の愛を示すのですが、例えば、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)こういう言葉で、天の父・神とはどういうお方かということを説明します。

 

イエスが生きたのは、今から2000年前のパレスチナ地方で、その当時はユダヤ教です。そして、ユダヤ教はどちらかというと、因果応報の神です。神との間で人間が契約を交わすということが旧約聖書の歴史にあります。その神との間に人間が交わした契約を出来るだけ忠実に守る人には沢山のご褒美が与えられるということです。

 

例えば聖書にはですね、「忠実な義人たちは、何百歳も生きた」とか、あるいは、「子宝に恵まれる」とか、あるいは「自分が持っている土地が豊作である」とか、「飼っている家畜がどんどん子を増やしていく」とか、それが神に忠実な見える印です。だから逆に(忠実ではない人は)子供が産めない奥さんとか、あるいは早死にする人は神に呪われているという理解があった、ということです。

こういう点は、やはり歴史の中で表れてきた神理解、と見ていく必要があるかと思います。このどちらかというと因果応報の神を信じているユダヤ教の只中に生まれ育ったイエスは、「神とは無償無条件の愛のお方である」ということを非常に具体的な言葉や振る舞いで伝えています。その中で言われた言葉が「敵をもアガペしなさい」ということです。

 

つまりどのような敵であったとしても、その敵の存在を無条件に受容しなさい、肯定しなさい。好きとか嫌いとかそういうレベルの事ではないということですね。こういったところにイエスは真の神のあり方を見て、私達に伝えようとした。つまり通常なら、信仰を持って一生懸命頑張る人に対して神様が沢山の恵みを与える、それは基本的に頑張る人が報われるというような社会通念だったら、それはそれで非常に公平な神様ということになるのですが、そのような私たち人間世界での公平とかを超える神をイエスは伝えようとした、ということです。

 

それが、神はアガペであるということ。神は無償無条件の存在の肯定という恵みを、その人が善人であろうと悪人であろうと、全く関係なく与えられるということです。ですから、取引の神ではないということです。ここは非常に大事なところです。「あなたのような神を信じます」というふうに私達が神を信じたら、「よしよしお前はよろしい。私の無償無条件の愛をあげよう」という取引をするような神ではない。信じようと信じまいと、神を呪おうと、神なんているはずがないと思う人にも,神のアガペ、無償無条件の存在の受容が与えられているということですね。

 

ですから、「この神を信じる」というのは、私が信じようと信じまいと、その前から私がこの世に生まれ落ちた時からこの恵みは、すでに私と共にあったということを発見するということで、これが信じるということです。「信じてナンボ」ということではありませんし、これは非常にエゴの宗教観の中で出てくる信仰理解と言っていいと思います。

 

そういう中で、私たちは丁寧に、丁寧に、イエスが伝えようとした真の神とその神の恵みについて目覚めていくことが大切になってきます。

 

そして、私は今から11年前にインドでゴエンカ式の10日間のヴィッパサナー瞑想に与って、本当に瞑想のすばらしさを体験しました。そうしてこれは、私達キリスト教を信じている者にとっても、信仰を本物にしていくための非常に優れた修行、瞑想法だということを感じました。それで、私なりにキリスト教の要素をいろいろ付け加えたりして、今この修道院で、「キリスト教的ヴィッパサナー瞑想」と呼んで皆さんに紹介しています。

 

神の似姿として造られた人間とエゴの問題

 

さて、神の次にもう一つ大切なのは、「私たち人間とは何者か」について聖書はどう言っているかということです。一法庵関係の皆さんも大体はご存知の方が多いのはないかと思いますが、創世記の最初に天地創造の話があって、その最後に神様が人間をお造りになるという話があります。その中で、神が「我々にかたどり、われわれに似せて、人を造ろう」(1章26節)とおっしゃって、そして土の塵を人の形にして、そしてその人の形の鼻に息を吹き入れると、アダム、最初の人間になった、という出来事があります。

 

つまり、私たち人間とは、元々神の似姿として造られた、神に似たものとして人間は造られている、これがキリスト教の人間理解です。ですから、私達がどこに向かっていくのかを見ようとするならば、それは私達が元々神の似姿として造られた一人一人であることを知って、そして、神の似姿として造られた自分自身を完成に向けて自分を鍛えていく、成長させていく、歩ませていく、こういうことが分かってくるんですね。

 

じゃあ、その「神の似姿の完成というのは何ですか?」ということが出てきます。「神はアガペである・神は無償無条件の存在肯定のお方である」とみていくならば、この神の似姿をどう解釈するかが問題になってきます。この解釈はいろいろあるんですが、私はやはりヨハネの第一の手紙の4章16節に書かれているところを、とても大切にしたいと思っています。

 

「神とはアガペである。」 ですから、神の似姿として造られた私達は、アガペの似姿として造られているということ。つまり、私達は最終的にアガペを本当の意味で生きる人間になっていくようにと、最初から神によって造られている。一人一人はその可能性を秘めているということですね。

 

でも、ここに現実が立ちはだかっています。つまり、もうすでに私達は、何度も良道さんを通じて聞かされていて、私たち自身も感じていることですが、どれほど「アガペの愛を生きましょう」と教会の中で言われても、そのアガペを生きることが出来ない。どれだけ人に親切にしても、「私はこんなに一生懸命あの人の為にやっているのに無視されている。なんてひどい人!」というように、相手を無意識の内に評価したり裁いたりしているのです。

 

つまり、本人は無償無条件の愛で誠実に相手に関わっているつもりが、その奥では条件付きの愛を生きているということですね。

 

「こんなに頑張っている私をもっと分かって欲しい」という心、つまり私たちの中にはどんなにいいことをしていたとしても、どんなに親切にしていたとしても、どこかで気づかない形で、見返りを求めるとか、感謝を求めるとか、条件付きにしてしまっているのです。「こんなに私がしてあげているのだから、貴方もちゃんとしてね」という裏のメッセージを込めて相手に親切にするとか、こういったことが、やはり私たちの中に、キリストを信じている者に日常茶飯事のようにあります。

 

つまり、私達にとって、無償無条件の存在肯定というアガペを生きるのを阻んでいるのはエゴだ、ということです。これはえらく厄介なものなんです。全く簡単ではない。それはもう良道さんがおっしゃている通りだと思います。では、どこに問題があるかというと、もうついつい条件付きで「無償無条件の愛」を生きてしまう自分です。ここに何とかしないといけない問題がある。

 

じゃあこの条件付きについついなってしまう私をもっと整えよう、条件なしに生きられる私に、条件なしに無償で愛を生きられる私にならなければと、力づくでやってしまうとどういうことになるかというと、「こんなに見返りや条件付きが求められる状況の中でも、私は無条件で愛を生きられる私だ」という、また新しいエゴが無意識の内に出てきてしまいます。これは無限に続きます。

 

つまり、一生懸命に立派になればなるほど、「立派に生きられている私だ」という、周りと自分を比べるエゴが無意識の世界から出てきます。

 

ここにものすごく大きな問題があるということですね。イエスは、こんなふうに神が一人一人を無条件に愛して下さっているのだから、あなたがたもその神の愛に応えて、隣人を自分のように愛しなさい。こう言って、これが多くの掟の中で、「神を愛する」ことに次いで最も重要な掟であるとイエスは私達に聖書を通して教えてくれました。

 

でも、結局そこにいつも問題がある。「隣人を自分のように愛しなさい」という愛はアガペの愛ということなんですが、それを一番阻んでいるのが私のエゴだということですね。このエゴを、本当に、繰り返し、繰り返し、いくら頑張っても突破することが出来ない厄介なエゴの問題として悩んでいました。そのような時、11年前にインドに行って、ゴエンカさんの10日間のヴィッパサナー瞑想に与ったことが、その突破のきっかけになったということです。

 

10日間のヴィパッサナー瞑想とエゴの突破体験

 

今回も、この青空リトリートが初めての方は、「結構もう疲れる」「しんどい」「足が痛くてたまらないのに、まだどれだけ我慢しなければいけないの」とか、そういう思いを持っておられる方があるかと思います。

 

私も11年前にインドで初めてこの10日間の体験をした時に、同じように感じました。わざわざ高い航空運賃払って来たのに、こんな所でくじけちゃ元も子もないという打算的な思いもあったので、最初はどうするかというと、頑張る、我慢する、我慢する、耐える、耐える、耐えぬくという事でした。チーンという鐘が鳴るのが待ち遠しくてたまらない。それで何とか乗り切っていくのです。でも良道さんがヴィパッサナ―瞑想・マインドフルネス瞑想のポイントとしてお話し下さっているように、インドで与った時にも常にどのような痛みが来ても「観察せよ」「観察せよ」「observe」「observe」。そういう言葉をアドバイスとして、何度も受けました。

 

我慢というのは、痛くて苦しくてたまらないという事ですよね。やはり、ここにまたエゴのからくりがあると思います。エゴは好ましいものを自分に引き寄せて、それと一つになって、うっとりとした満足感にひたりたい。でも、好ましくないもの厄介なものは常に避けて自分から遠ざけようとします。

 

長く座っていると痛みが湧いてきて、その痛みはとんでもない苦しみを私に与えることになります。そのようにイタイ!イタイ!という感じになってくると、痛みというネガティブな感覚と自分をひとつにしてしまいます。ここにエゴの本質があります。エゴというのは、同化、何かとついつい自分を一つにしてしまう、英語でassimilationといったりしますが、ここに私たちの厄介なエゴの本質があるということです。 

つまり、本当は自分ではないものと自分が無意識の内に一つになることで、それを私だと思いこんでしまう。ですから、うっとりとするようないいものがあったら、例えば「本当に待ち遠しくてたまらなかったルイヴィトンの春物バッグを手に入れた〜〜」こういうふうな恍惚感。 別にルイヴィトンのバッグは私ではないんですけれど、手に入れた私は、このルイヴィトンの春物最新流行のバッグを私の存在の一部のように心理的に感じてしまい、うっとりするということです。けれども、それは全く一時的な儚いものだということですね。

 

まあ、ポジティブな方はまだいいのかもしれないんですが、ネガティブなものは凄く厄介だということですね。その一つが痛みと言っていいと思うのですが、そういったものとついついエゴは一つになってしまう。それが大変だということになると、エゴは力づくでそれをやっつけようとする。もしその大変なものが避けることが出来ないものだったら、我慢するとか、別の事を考えてふたをするとか、という形になります。でも結局、痛い厄介なものは、「痛い厄介なもの」として残ったままですから、いつまでたっても真の問題は解決されないということです。

 

それに対して観察しなさい、観察しなさい。つまり、ついつい巻き込まれそうになるけれども、出来るだけ心を穏やかにして、痛みと感じられる感覚を現象として見つめなさいが、ヴィパッサナーです。

 

こういうアドバイスがあって、勿論そんな簡単には出来ないんですけど、私の場合は、6日目だったんですが、結構激しい足の痛みがあるのに、ふと気がつくと、心が巻き込まれずに、心臓もバクバクしたりせずに、全く穏やかな心で、自分の痛みを見つめている、こういう境地を体験しました。

 

その時に感じたのが、「私の意識というのはこんなにも自由なのか」ということです。それまでは兎に角、我慢、我慢、早く鐘が鳴らないか、そればっかりを考えるとか、この痛みがもっと強くなっていったらどうしようとか、足がやられて立てなくなればどうしようとか、兎に角ネガティブな発想がどんどん膨らんで、それが私の痛みをまた心理的に大きくするという、こういったカラクリだったことが後で分かりました。6日目の午後の体験、足に、自分の身体の一部である足に、実際の身体的な痛みがあるのに、心は穏やかにそれを見つめている、こういう境地ですね。

 

ですから、こういう体験をして、本当の私の意識というのは、実はもっと自由なんだということを知るようになりました。これが私にとって乗り越えるきっかけになったと思います。つまり、今まではエゴが私だと思っていたけれど、エゴではないもう一人の私がいるんだという気づきですね。つまり、もう一人の私というのは、痛い、痛い大変だ、何とかしなければ、早く終わらないかな、どんなふうにして我慢できるだろうかとか、右往左往しているエゴから離れて、静かに、右往左往しているエゴと身体的な強い痛みを見つめている。そういう意識が確かに現れる、ということですね。そして、そこにこそ本当のこの私があるんじゃないかということですね。これを私なりに、「根源意識」という名前で、今は呼んでいます。

 

つまり、この根源意識は、勝手に私が名づけでいるものですけれど、あらゆるものに対して巻き込まれない心で、穏やかに現象を見つめられる意識。感覚にしても、感情にしても、あるいは、思考にしてもあるがままに見つめることのできる意識ということです。

 

私たちが巻き込まれやすいものの一つはネガティブな感情だと思います。誰かの一言で、カチンと来て怒りが湧いてくるという時に、ついつい私たちはエゴの傾向性だったら、怒りと自分をひとつとして、怒りの雲に自分が飲み込まれて、怒りの中に自分を見失ってしまう。こういったことが時々あります。いわゆる、切れるということですね。そうなると、怒りの雲が大きくなって爆発しちゃう。大変な事を起こしてしまうということですね。

 

それに対して、怒りの雲から離れて、それを静かに心の青空から見る。これが良道さんの「本当の私は青空だ」というところと繋がってくると思います。相手の一言で怒りが湧いてきてる、あるいは、考えにしても「あの人は私を見下している」とか、何か相手に対してレッテルを貼って、そのレッテルが強いものになると、相手は私を見下しているという考えが、私のアイデンティティの一部になってしまいます。

 

これは、もう恐ろしいことですね。どんなに相手が優しい言葉をかけてきても、「何か裏があるに違いない」とか、常にネガティブなフィルターを通した解釈しか出来なくなってしまいます。これがまた苦しみを生むということになります。

それに対して、痛みの場合と同じように、相手の一言で「今、怒りが私の心に沸いてきている」と気づく、相手の言ったことに対して「『あの人は私を見下している』と今思った」というふうに気づくのです。

 

そして、「価値観を入れないで」ということですから、怒りを「裁かない」「やっつけようとしない」「厄介なものだというネガティブな判断も持ち込まない」相手にレッテルを貼る考えに対しても、同様です。こういうふうに見ていると、「あ、これはイエスが言っているアガペ、存在の無条件の肯定と全く同じだ」と気づきました。

つまり、私の心に沸いてくる怒りに対しても、あるいは、相手を決めつけるネガティブなレッテル貼りの考えに対しても、エゴがそれを取り除こうと今まではしていた。でもそうではない。イエスが教えているアガペとは、どんなにネガティブなものが私の心に現れてきても、あるがままの存在、心に表れた存在の一つとして、それを認めその存在を受けとめていくということ。ここに、イエスが教えるアガペの「本当の大切な中味」があるということに、だんだんと気づき始めました。

 

アガペである根源意識の場が本当の私

 

そのようにあらゆるネガティブな心の状態をも、あるがままに巻き込まれない形で気づいて、その存在を認めていくという在り方がアガペであって、そのような気づきが出来るところにこそ、本当の私があるということがだんだんと分かってきました。

 

このような無償無条件の気づきの営みを根源意識と名づけているのですが、この根源意識の場こそ本当の私の場だ。ヴィパッサナー瞑想とはこの根源意識と名付けた場に目覚めて、そこに本当の自分を見出していく、このような営みではないかと感じるようになりました。

 

また私にとって非常に大切なのは、これが神とどう関係するかということですね。聖書の中にもいろいろありますが、いわゆるキリスト教の神様とは天におられるとか、例えばキリスト教についての子ども向きの絵本だったら、神様は「雲の上から白いひげを生やしたおじいさんが地上を眺めている姿」などに描かれています。 そういう外なる神とかがイメージしやすいのですが、本当は、そうではない。例えばパウロという人は、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」(汽灰螢鵐6章19節)と言って、神が私達の内に住まわれることを述べています。

 

あるいは、イエスの教えや生涯について書き記した福音書というのが四つあるのですが、その中の一つの「ヨハネ福音書」では、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(14章23節)とイエスが語るなど、非常に深い言葉があります。

 

つまり、神とは私の中に住まわれる神です。そして、特にキリスト教では聖霊の働きが人間とのかかわりで強調されるんですが、この内なる聖霊の働きが、私の意識の根源に及んでいるから、私は自分の気づきとして自分の心に沸いてくるネガティブな感覚や感情や思考を全くあるがままに、一切価値判断を入れず、裁いたりせずに、存在肯定し、存在を受けとめていくことができるということです。

 

キリスト教の中で非常に大きな問題に、「人間の自由と神の恵みをどう調和させるか」ということがあるんですが、ここでは、それが全くすんなりとストーンと落ちるということです。つまり、私が確かに私の力によって自分で気づいている。でも同時にそれは私の意識の根源に働く、聖霊という愛の神の働きに協力する形での私の営みだということです。

 

これは、何でもかんでも自力でこの世の問題を解決していこうとする人間万能主義でもないし、あらゆるものを全く神に丸投げする「もう私には何もできません。貴方だけが頼りです」という丸投げ型、神頼み型でもありません。両方ともやっぱりおかしな事です。

 

ヴィパッサナーの気づきには、非常に深い神秘的と言えるかも分かりませんが、人間の神に対する協力ということがあり、その中に本当の宗教心があると思います。

 

これはキリスト教の枠の中でということになりますが、ヴィッパサナーをしている時の私を、このように営ませてくれているのは、神の恵みの働きが確かに私の意識の根底に働いているからである、とこう理解をすることが出来る。そして、ここにこそ神との出会いに開かれた場があり、そこにこそ本当の私の場があるということです。

 

つまり、この瞑想が、キリスト教にとっても素晴らしいなあと思うのは、やはりキリスト教の人もエゴの中で彷徨いながら本当の私を求めているのですが、真の私とは、私が神と出会う場にある。そしてそれは正に無償無条件の存在肯定というイエスが示したアガペを生きる場にある。本当の私を見出す場、アガペを生きる場、神と出会う場が全部重なってくるんですね。ここは、とても大切な点だと思います。

 

既にアガペを生きている身体


 

そこで、それを教えてくれるのが、身体なんですね。で、これ本当にヴィッパサナーの素晴らしいところです。禅もそうだと思いますが、東洋の瞑想というのは、身体を大切にします。身体から瞑想に入っていきます。

 

キリスト教の伝統に、身体を考えないことが無いことは無いんですが、基本的なパターンは心と知性で祈り神に向かうということです。そういうパターンでは身体は二の次ですね。歴史的に見るならば、皆さんも聞かれた事があるかと思いますが、ギリシャ哲学を始めた人と言われているプラトンの影響です。

 

プラトンは「肉体は魂の牢獄である」と言って、人間の救済とは「その魂が牢獄になっている肉体から解放されることだ」と考えて、これがキリスト教の教えの中にも相当浸透しました。ですからやはりキリスト教の中にですね、身体は二の次ですとか、肉欲とかいう言う方があったりするんですよ。本当は心と頭の問題であるのに、あたかも身体自身が勝手に欲するとか欲望を持つとか、そういうふうなイメージがキリスト教の人間観の中に植え付けられたところがあります。

 

でも、そうではない、全くの逆です。一切身体には欲がないということですね。これも瞑想を通して学んでいきました。実はヴィッパサナー瞑想に出会う前にインドでヨーガに出会って、ヨーガの素晴らしさを私は感じるようになったんです。身体の素晴らしさに開眼することが出来たということです。

 

つまり、キリスト教の枠の中で見ていくと、頭と心が求めてやまない神を既に身体は発見し神と響き合って生きているということです。この「神と響き合っている」という現実を「神の国」とキリスト教で言いますが、身体は既に「神の国」を生きているという事ですね。

 

つまり、身体の一つ一つの部分はアガペを生きている。「無償無条件の愛」「無償無条件の存在肯定を生きている」こんなふうに言うことが出来るのではないかということです。例えば、心臓。心臓は血液を体中に送り込むというポンプの役割を果たしますが、それを通して酸素というエネルギーを身体の隅々にまで送ります。それで私が生きられるということですよね。でも、心臓は全くそれを無償無条件で行っているということです。心臓は私達がこの世に生まれ落ちた時から働き続けています。

 

私達は、今晩瞑想した後、部屋で寝ると思いますけど、心臓は寝ません。心臓が「私も休ませてもらいます」と言ったら、目覚めは無しということですよね。私たちが疲れて休んでいる時にも、心臓は働いている、働いている、働いている。つまり、この世にさよならを言う時まで働き続ける。

 

でも、こんなにずっと私が生まれ落ちてから働き続けている心臓ですが、じゃあ、「はい、貴方一年にこれだけ血液を送ったからリッターいくらで請求します」とか、そういったことを心臓は要求しません。あるいは、「こんなに頑張っている私にせめて感謝の一言ぐらい言って欲しい」というようなことも一切言いません。あるいは、全く無条件というのは、「こんな酷い人じゃなくてもっと立派な人の心臓になりたかった」とかの選り好みを心臓はしないということです。

 

その人がどんなにエゴにまみれている人であろうと、どんなに立派な人であろうと、その人を無条件に受けとめて、その人を生かそう、生かそうとする。このアガペの愛のシンボルである心臓の素晴らしさに、だんだんと気づくようになりました。

 

そしてまた気づいたのが、真の愛は自らを隠すということです。つまり、正常であって調子が良ければよいほど、その姿、心臓の働きに私たちは気づかない。その営みに気づかない。問題が起こった時にだけ気づくんです。病気とか、何かの欠陥とか。

 

それは心臓だけではなく、あらゆる部分について言うことが出来ます。肺・胃・腸・肝臓・腎臓、あるいは筋肉。あらゆるものがアガペなんです。それぞれが無償無条件の愛を生きている。そして、それが正常であればある程、自らを隠すということです。

例えば、イエスは偽善者の施しについて批判をしながら、「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6章3節)とこんな言葉を言っています。右手のすることを左手も知らないというのは、全く自らを隠すということで、つまり、「わたくし」が無いんです。真のアガペには「わたくし」がありません。そして、丁寧に見ていくならば、心臓に「わたくし」はありません。肺にも「わたくし」はありません。これが私達の身体です。

そして、さらにこのような心臓や肺、そして胃や腸、あるいは筋肉を構成しているものはいわゆる細胞ですね。今から5年前に人間の大人の細胞がどれくらいかというのが、かなり正確に推測できるようになりました。それによれば、私達一人一人は約37兆の細胞を持っているということです。そしてその殆どは、一年間で入れ替わるということです。

 

また、皆さんご存知のように、一つ一つの細胞は、DNAという私たち一人一人の設計図、遺伝子の設計図を全部持っています。でも例えば、私の人差し指のこの細胞が新しい細胞に入れ替わる時に、その人差し指のところとしてだけ働く。あるいは、目の細胞が入れ替わる時にも、目の働きの部分だけが表れてくる。それ以外は一切表われない。つまり、表れる部分に対して、全く自分を調和させて働いて、そして、働き終わると、全く人知れず気づかれず、自ら退いていく。

 

無の内に表れて、ふさわしい役目を果たし、無の内に退く。誰も何も気がつかないうちに。これこそアガペです。

 

ですから、だんだんと分かってくるのは、本当の愛を生きている人は知られない。隠れているんです。知られることを望むというのは、もう既にエゴがあるということで、無理があります。真のアガペを生きるときには、知られる、知られないは何の関係もなく、何の関心もない。ここに私たちは召されています。アガペの人になるというのは、そういうふうにですね、全く自分というものを無にして、そしてふさわしい働きをしていく。こういうところにアガペがある。そして、正に根源意識を見ていったら、こういう働きをする場が根源意識と名付けられているところではないか。そして、ここに私たちにとって本当に大切な真の私の場があると、見ていくことができるのではないかということです。

 

そこで、またキリスト教の話ばかりになりますが、こういう私たちが神の似姿として造られて、その似姿とは、神のアガペである。では、アガペに似たものとしてアガペを生きるということであるならば、私達の人間としての完成は、アガペの人になること、つまり、掛け値なしに無償無条件の愛を生きる人になっていく。無償無条件の存在肯定を生きる人になっていくこと、ここに人間の完成があります。

 

アガペの究極を示したイエス・キリスト

 

では、「それを誰が出来ているんですか?」「それは、イエス・キリストです」とこう私たちは信じています。そして、イエス・キリストの中に、神の似姿の完成された人を見て、そしてその人を手本にして、私達も歩んでいこうということです。

 

では、「このアガペの究極って何ですか」という問いもあります。私達キリスト教は今年3月の末と4月の初めに、キリスト教の暦で一番大切なイースターの週間を迎えました。この聖堂にも十字架がかかっていますが、イエス・キリストの十字架上の死、その死と三日後のよみがえり、これをキリスト教の一番大きな出来事として、私達は今年も祝いました。

 

つまりそれに何を見ていくのか。いわゆるこの十字架というのは、ローマがその当時編み出した見せしめ刑ですね。政治犯にだけ適応された処罰であって、出来るだけ苦しみが長く続くように考えられたものです。つまり両手足に釘を打ちこんで、そしてその十字架に磔にすることで、直ぐには死なないのです。苦しみが長く、長く続く。「ローマに逆らうと、こんな酷い苦しみをお前たちは受けることになるんだぞ」という見せしめ刑ですね。ですから、私達が普通に見た時は、まあ特に日本人には十字架のキリストがなかなか馴染めないところがあるのは、残酷さそのものを見える形で表すというものだからだと思います。でも、キリスト教はこれをアガペの愛のシンボルとして、見ていきます。

 

つまり、イエスはヨハネ福音書の15章で言っておられるのですが、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きなアガペはない」(13節)。ですから、相手の必要に応えて無償無条件の愛、それも勿論アガペなんですが、最終的に最も大きなものは、そのアガペのために惜しみなく自分の命を差し出していく、というところにある。これを私達キリスト教は、この十字架のイエスの中に見ていくのです。ですから、十字架のイエスは、あのような残酷な殺され方をしたけれど、全くそれに対して、アガペを生き抜かれた方ということです。

 

とても興味深いのは、この十字架にイエスが掛った時に、十字架に付けた人たちが、「お前がもし本当の救い主なら、今すぐ十字架から降りてみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。今直ぐ降りてみろ。そうしたら信じてやろう」とあざ笑うんですね。

 

でもイエスは十字架から降りない。十字架から降りるというのは、そこで、神のエゴが出ることになる。「お前ら見ておれ、おれにどんなひどいことをしたか思い知らせてやる。」これは恐ろしい裁きの神です。力の神です。キリスト教が信じているのは、神の救いは決して力ではなく、愛です。アガペのみが人間を救うことが出来る。この教えですね。イエスは苦しみのうちに十字架上で亡くなられた。

 

ここに本当に大きなキリスト教の神秘があります。ここに、すごく大切な点があります。そのようにして亡くなられたイエスを、「あの人こそが私達の救い主だ」と信じるグループが表れて、それがキリスト教に繋がっていきます。

 

イエス・キリストの「私性」と無としての私

 

キリスト教の成立ということですが、このように私達に神を示してくださった「イエス・キリストとは何者か」ということが教会の成立の過程で非常に大きな問題になります。これについては、いわゆる、「キリストとは何者か」を探求するキリスト論と言われる神学があります。イエスが亡くなったのは、紀元30年4月7日と言われています。それから6世紀、7世紀くらい経って、つまり500年、600年かけて、この「キリストとは何者か」が論じられて、最終的に一つにまとまっていくのです。そのまとまりの中心が「イエス・キリストとは、真の神であり、真の人である」いう教義です。つまり、「キリストは50%神であり50%人である」のではなく、「100%神でありかつ100%人である」これがイエス・キリストということです。これは神秘そのもので矛盾的な表現でしかこのキリストの神秘を表せないということですが、「どんなふうにしてイエス・キリストの中に神と人間がいることが出来るのか」これが古代の教会の大問題でした。ここに、私達がやっている、良道さんも言っている、「二人の私」を解くヒントがあるんですね。はい、つまり、ここにですね、「十字架で苦しんだイエスはどのイエスか」こういう問題が出てきます。

 

つまり、100%神なら、神であるイエスが苦しんだのか、あるいは苦しまなかったのか。こういうふうに追求していくと、非常に大きな問題になります。ここに最終的に「私というものを構成しているものは一体何か」という非常に大きな問題が出てきます。実は古代教会の「キリストとは何者か」という凄い哲学的な、神学的な議論の中に、人格という概念が出てくるのです。

 

私たちは「人格」という言葉を普通に使っています。私は自分の声や身体を持っていますが、でも私の両手両足がもしもげても私は私であり、外見ではないということですね。まだ髪の毛は全部ありますけど、これが無くなっても私は私です。あるいは、自動車事故にあって車が燃えて、私が丸焦げになり誰が見ても分からなくても、意識のある私が鏡を見たら「あっ私の身体が丸焦げになって、まったくひどい姿になった」と私は気づける。

 

つまり、そういう私というものが私たち一人一人にはある。他の誰でもないこの私。そういうところに人格というのを見て行こうとする。じゃあ、「この人格って一体なんですか」ということが非常に大きな問題になってきます。それを、ギリシャ教父と呼ばれるギリシャ語で神学を探求する人たちは、「ヒュポスターシス」というギリシャ語で言い表すようになりました。これを丁寧に見ていくと、根源意識と凄く重なって来るんです。

 

つまり、「ヒュポスターシス」というギリシャ語は、その人のその人たる中心を表すという概念として成立してくるんですが、実は何ものでもないのです。何ものかであったら、それは対象化されてしまいます。つまり、真の私というのは、私以外の者を私以外の者だと認める事ができる。そういうふうな私であるなら、「これが私だ」と見せる事が出来るとしたら、じゃあ、「これが私であると見せている私は誰ですか、それは誰ですか」という問題が出てきます。

 

今、ちょっと「頭のはたらき」が必要になっているかもしれませんが、このように見ていくと、真の私が私であると言い切る事が出来る者は「無」なんです。そして、「無」以外に私が私であるというところを成り立たせる場は無い。これが神としてのイエス・キリストの「私」だということです。

 

イエス・キリストは神の子として生まれたとキリスト教は信じているんですが、それは、肉体を持った人として、神がクリスマスにお生まれになったということを、クリスマスとしてお祝いするんですが、その神の「ヒュポスターシス」という、これを位格とか人格とか言ったりするのですが、その神としての「私性(わたしせい)」というのを持って、キリストはマリアの胎内からお生まれになった。こういうふうに理解することが出来るようになりました。

こうして見ていくと、この「私性」のところに神たる由縁があるけれど、それ以外は全く100%人間ということです。一つの受精卵、いわゆる処女懐胎ということをキリスト教は信じていますから特別なんですが、全く人間の細胞としてお生まれになった。でも、その「私性」つまり、「イエス・キリスト性」というのは、「神性」「神」である。その神が人間と同じように大きくなっていかれるということです。皆さんをあまりこんがらさせたくないんですが、あと3分ぐらいで話は終わりですけど。

 

つまり、本当にこれはヴィッパサナーをしていて分かるようになったんですが、十字架上のイエスの苦しみは、100%人間としての苦しみである。でも、その苦しみから神としてのキリストは離脱しているという。はい、物凄い、神秘的なところなんです。

 

でも、最初のほうで言いましたが、自分の激しい足の痛みであるのに、ふと気がつくと、全く巻き込まれないで穏やかに痛みという現象を自分のこととして受けとめられるというのは、もう一人の私ですね。あるいは、真の私がそのように気づけていると、その真の私は私の身体的な痛みに巻き込まれていない、このような現実が出てくるということです。

 

つまり、こう見ていくならば、私達が神の似姿として造られているのは、このイエス・キリストのキリスト性、無なる神という場に実は私も与る身なんだ、一人ひとりはということです。そして、ここに神の似姿として造られた私たちの場がある。まあいわゆるキリスト教の教えの枠の中ですけど、突き詰めていくとこういう理解に到達することが出来るんじゃないか。あくまでも私なりの考えなんですが、でもこれは、今行っている瞑想修行と物凄く重なってくると思うんですね。

 

そう見ていくと、今まで痛い、痛い何とかしなければというエゴが本当の私ではなく、それを静かに無償無条件の存在受容として認めることが出来る、もう一人の私、真の無なる自己というところに本当の私があり、その無なる自己こそが神との接点になっていく。

 

そこで私は、神の似姿として造られた、その私に目覚めて現実世界を生きることが出来るのです。

 

巻き込まれそうになりながらも、静かに見つめる心を持って、全く穏やかな自由な心で、そして、そここそが、全く無理なく自然体で一切条件を持ち込まずに、アガペの愛を生きられるのです。「無」だからです。そして、その「無」は神によって満たされているから、それ以上私は何も必要としないのです。本当の私とは「神のアガペに満たされた無」であるということです。そこに本当の幸せもある、そこに本当の平和もある。こういう事ではないかとだんだんと気づき始めました。

 

これは、良道さんとの遣り取りを通して、いろいろ私なりに自分が信じているキリスト教の中心とは何かと、そういったところも、だんだんと気づかされていく中で、今のところ私が到達した地点ということです。

一応キリスト教の枠の中でお話しましたけれども、これを少し置き換えると、いろんな枠で、私達はまた自分のこととして見ていくことが出来るのではないか。そして丁寧に見ていくならば、本来の私は最初から「もう一人の私」なんです。でも、それにやっぱり気づかない、目覚めない、という中で生きているから、いわゆる映画の中の私として生きている。でもそうではない。そこに本当の私は無いということですね。

 

時間が来ましたので、これぐらいで終えたいと思います。一つの参考にして下さればと思います。

 

 

 

 

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18/04/29 イエス・キリストだけではなく、私もまた二重構造ならば

18/04/29 イエス・キリストだけではなく、私もまた二重構造ならば

http://www.onedhamma.com/?p=6600(法話が聴けます)

 

 

マインドフルネスはせいぜい仕事の効率化を目指すというレベルでとどまるのではなく、マインドフルネスは死と輪廻の問題を解決し、キリスト教の核心部分にまで届いて行く。

今までは、マインドフルネスの急所である「私が二重構造になっている」というところが通じなかった。「普段の私」と「マインドフルになった私」は違うのだということがピンとこないと、マインドフルネスを分からない。しかし、キリスト教の神父さん達が理解してくれた。なぜならキリスト教には、一つの問題が与えられて、そのことについて2000年間考えてきたから。とてつもない量の情熱をもって考えてきた。2000年間どういうことを考えてきたかというと、「私はこの世に属していない」とイエス様の言葉についてである。

 

あらゆる知性を傾けて時間を使って情熱をもって考えてきた、その蓄積はただならぬものがある。その結果、上石神井黙想の家のリトリートの中でも、カトリックの人のなかに、イエス様の言葉が体感できたかたがいた。

第五図のわたしはこの世界の外にいて、この世界には所属していない。

 

ただ、第五図の坐禅をしているひとの解釈には二つある。身体ととらえるのか、もう一つの意識として捉えるか。

スポーツジムに行っても、頭の中のグルグルが汗をかけばスッキリする。禅では、身体に智慧があるから、身体に戻ればいい、となる。心臓の動きの中に大自然の命がはたらいている、となる。

 

心臓を動かしている御いのち、というところからは、どうしても「この世に所属していない」とはならない。

心臓を動かしている御いのちを身体の中に感じて、頭の中の訳のわからないものを手放したらいい。そして御いのちを一番純粋に表すのが坐相であり、それを骨格や筋肉で狙っていくのが坐禅。だから坐禅は瞑想ではない、となる。瞑想は心をどうにかしようという要素があるから、それを全部否定している。身体そのものに御いのちがいるから、心をどうにかしようとしないで身体を整える。そうしたら御いのちがあらわれる。その身体はすべての人とつながっていて大自然とつながっている。すべての世界が本当の身体である。そこには「心」の要素は一切入ってこない。

 

身体はすでに思いを手放しているのだから、呼吸に集中することも教えない、第五図は、第四図のぐちゃぐちゃを出てただ肉体に帰ればいい、となる。第五図をこう解釈した場合、イエス様の言葉はどこをどう考えても解けない。
観察するのは心のはたらき、心のはたらきを手放して身体に戻るのだから、禅の人達がマインドフルネスが重要だと思えないのが本音である。

 

我々は第五図を身体ではなく意識として捉えている。意識だから観察することが出来るのである。

第五図はもう一つの意識であり、普通の意識と別の意識。もう一つの意識と取った方がはるかに仏教とつながる。

内山​興正​老師の第五図の坐禅をしているひとを、単なる身体ととらえるのか、別の意識ととらえるのか。普通の意識と別の意識と区別がついていない人たちは、マインドフルネスの主体をうまく表現できない。

 

「この世に所属していない」、ということを考えてきた人が、ヴィパッサナー瞑想をすることで、いままで普通に生きてきた世界に、我々は本当には所属していない、ということが分かり、そのことを体感できる。ヴィパッサナー瞑想をすることによって。マインドフルに観察しているとき、私はこの世界の外にいる。

イエス様が「この世に所属していない」といった。
イエス様は特別な人。特別な人は所属してない。では私は?
イエス様は二重構造。信者である私は?
キリスト教は二重構造こそ一番大事な部分である。

 

柳田神父は、山下先生に対して以下のように語っておられます。

「イエス・キリストとは何者かという問題(キリスト論)として初代教会、古代教会で数百年間論じられてきました。ここには本当の私として生きるとはどういうことかというとても大事な問題が背後にあります。

そのキリスト論問題が6世紀に一応決着を見てからは、イエス・キリストがただ信じるべき対象としてのイエス・キリストになっていったところにキリスト教の抱える不幸(イエス・キリストと人間をかけ離れた関係と見てしまったこと)があります」

柳田神父はヴィパッサナー瞑想を通して自分が二重構造だと発見した。

イエスキリストとは何者か?という問題が、数百年間論じられてきて、キリスト論問題は6世紀に決着。イエスと人間をかけ離れた関係としてみてしまった。そして二重構造のイエスを信じる対象となった。

二重構造を本当に生きたのがイエス。

 

今まではイエスは我々と全く違う信じるだけの対象であり、特別な人で、すがるしかなかった。

イエスさまと我々は、二重構造という意味においては全く違わない。
ただ二重構造を十全に生きたという所が、我々とイエスさまでは全く違う。

キリストはまことの人であり、まことの神である。まことの神は本当の私として私たちにもある。そして本当の私は肉体ではなく、もう一つの意識である。
ヴィパッサナー瞑想を通してこの二重構造が分かる。

エゴとして生きてきた私が本当の私として生きていく。我々とイエス様の違いはそれを本当に生きているか、生きていないかであり、我々の向かうべき姿のイエス・キリストなのである。


神の子としてのイエス、人の子としてのイエスの二重構造は概念としてはあったが、分からなかった。マインドフルネスをすることで、この二重構造を実感できたのである。

 

 

お釈迦様が菩提樹の木の下で発見した真理と、キリスト教の核心部分「私はこの世に所属していない」という二重構造が全く一緒だということを知り、深い感動と驚きを感じています。そして柳田神父による「私も二重構造である」という大きな気づきが。キリスト教の長い歴史を変えるような凄い事であることもよく分かりました。

お釈迦様だから、イエス様だから真理に到達出来たのであって、あの人達は特別な人となり、すがる対象となる。私も以前はそうだと思っていました。私のようなものが、分かるはずがない、と。しかし、マインドフルネスによって二重構造を実際に体感することが出来、お釈迦様やイエス様は信じる対象でははく、向かうべき姿なのだと分かりました。

真の自己に目覚め、真の自己を生きる。イエス様だけが二重構造なのではない。私のようなものでも、私たちすべてが二重構造なのだと。

一重構造の惨めな私を手放し、イエス様を向かうべき対象としていく。これからのはっきりとした道しるべが出来、確信をもって進むことが出来ます。柳田神父様との7月の対談も本当に楽しみです。

http://www.onedhamma.com/?p=6600

| 07:44 | comments(0) | - | pookmark |
18/04/22 「古い人」から「新しい人」への転換

18/04/22 「古い人」から「新しい人」への転換

http://www.onedhamma.com/?p=6595

 

今回は、瞑想でつまずく二つの難所について詳しく説明して下さいました。

瞑想でつまずくのは二カ所である。登山で例えれば山道の難所にあたり、その場所にきたら、慎重に、慎重に乗り越えていく。

最初の難所は瞑想を始めた直後にある。いくら瞑想してもに入っていけないという所。

 

私たちは過去や未来についての自分勝手な映画を作っているに過ぎない。Aさんについても、Bさんについても勝手な映画を作ってしまう。我々はものごとを客観的に観ることは原理的に無理なのに、マインドフルネスにおいてはその無理なことをしなければいけないという絶対的に矛盾する事実がある。その矛盾を通して、マインドフルになれない私を発見するのが、実際に瞑想の現場で起こること。

そもそもマインドフルネスが始められない、というのが最初の難所。マインドフルにはなれない自分に絶望したときに、今の自分とは全然違う何かがあるという事を、発見してゆく。それを発見しない限り、マインドフルネスは一歩も始められない。

 

今までこれが自分だと思っていたものが、実は自分ではなかった。それとは全然違う自分がみえない限り、マインドフルネスは出来ない。ピッチャー交代が起こらないと、マインドフルネスは始められない。

この交代が起こるのが瞑想であり、これを理解できれば、瞑想はうまくいく。最初から瞑想のポイントがわかっていれば戸惑うことがない。

 

そして瞑想が進んで行くと、やがて、何かを捨てなければいけなくなる。その時に得るものは、いままでの人生の中で一番素晴らしいもの。と同時に絶対に失いたくない、大事なものを捨てなけれいけなくなる。

じゃあ何を手放すことになり、何を得るのか?

二番目の難所は、最初の難所と時間差で起こってくる。自分が二人いるということでマインドフルネスが始まり、それなりの成果が起こるが、どっちが私なのか?という矛盾に出会う。

 

マウンドには一人しかあがれなくて、お互い譲り合わない。今までの自分が何十年と生きてきていて、その人の心の癖、身体の癖を背負いながら生きている。今までの自分を、そのままでいいとなるか、今までの自分が生きていても辛すぎる、となるか。

この二人の自分について決着をつけなくてはいけなくなる。今まではひとりの自分しかいなかった。決着をつけるときに、古い自分を捨てて新しく生まれ変わりたいと思えるかどうかである。

 

今まで、瞑想で得るものは「永遠の命」といっても誰も本気にしていなかった。今までは遠くにある楽園の話であった。その楽園ががどれだけ素晴らしいかマスター達は語るが、その楽園にどうやって行くのかを具体的には語ってはいなかった。

そして2018年の現在、どう楽園に行けるのか、具体的になった。マスターが特殊な例外なのではなく、我々誰でもが、その楽園に行けるようになった。具体的になってきたからこそ、この二カ所の難所が問題になってきた。

 

世の中の多くこと、例えば英語をマスターするために、古い自分を捨てなければいけないということはない。ところが、マインドフルネスは全然違う。今までの私が。マインドフルになることはあり得ない。まったく新しい私がマインドフルネスの主体である。なので、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分に生まれ変わるのが宗教の核心であり、まともな宗教が目指しているのはここである。

新しい自分と古い自分をどう決着をつけるのか。どれを望むのか。現代になってようやく、マインドフルネスが楽園に具体的にゆける方法になった。新しい私になって楽園に入っていける。生と死、輪廻がない世界が見えてくるのである。

 

 

 

楽園がどれだけ素晴らしいかを語るマスターの周りに、楽園にあこがれる人達が集まる。でも、具体的方法が提示されないので、その方法が分からないから誰も行けないという現実。楽園に行ける人は特別で、選ばれた人しか行けない、という、今まで支配的だった思い込みは、マインドフルネスの登場により大きく変容してゆき、誰もが楽園に行ける時代になったのが本当に素晴らしいことです。

松田神父のおっしゃるように、私たちは楽園に招かれているのだと感じます。がんばれば行けるのではく、二重構造の私を知り、新しい私を信頼することによって、古い私が死んで復活する。

死から命に移る。悪人の私が赦される。どうしようもない凡夫の私が阿弥陀様に救われる。

深い深い慈悲を感じ、胸がいっぱいになりました。素晴らしいお話をありがとうございました

http://www.onedhamma.com/?p=6595

| 07:38 | comments(0) | - | pookmark |
18/04/15 マインドフルネスによって「死からいのちへ移る」(ヨハネ第一の手紙3:14)

18/04/15 マインドフルネスによって「死からいのちへ移る」(ヨハネ第一の手紙3:14)

http://www.onedhamma.com/?p=6586

マインドフルネスの定義は「好き嫌いなしに、評価なしに観察すること」だが、それは本当に出来るのか?

我々の心が、怒りや貪りの対象向かっているとき、そのこと自体に、横からの気づく目線がマインドフルネスなので、確かにマインドフルネスに先入観がないとき、怒っているこころに気づきなさいと言われると、不意打ちをくらったようになり、怒りから自由になる。そういう体験がビギナーズラックとして起こる。しかし、その後自分の心を気づこうと一生懸命にするけど、もう奇跡は起こらない。

 

世間のマインドフルネスには、宗教的主題である「もう一人の私」は一切出てこない。

それに対し、宗教の伝統の中では、「もう一人の私」は概念としては知られている。宗教の伝統では様々な表現を使ってそれを伝えてきた。禅では「本来の自己」と言い、浄土系の仏教では「煩悩具足でどうしようもない私」に対する「阿弥陀様に救われている私」として表現してきた。二重構造を概念としてはあるのに、問題は、もう一人の私を実感することが出来ないこと。

今の世俗的なマインドフルネスの理解のなかでは、この「2人目の自分」は登場しない。「2人目の自分」は、宗教的な色合いが大きくて、世間的世界観の中では受け入れられない。そうなると、私というのはシンプルに、肉体とシンキングしか持っていない私、となる。

 

マインドフルネスというのは、ふだんの私のはたらきではない。この私(第四図の私)が、努力することで好き嫌いやとらわれを乗り越えて、気づくのがマインドフルネスではない。なぜか?この私が好き嫌いととらわれそのものだから。好き嫌いという汚れを落とすことで、綺麗になっていくのではなく、我々自身が汚れそのものだから。

マインドフルネスは二番目の私に所属するものだと分かればすべての謎が解ける。今までは2人目の自分が実感できなかった。しかし、マインドフルネスによって2人目の自分が顕れてくる。

2人目の自分がマインドフルネスであったときに、すべての汚れから離れている。そこは掃除して綺麗にしていったのではく、もともと汚れが存在しない場所である。

 

マインドフルネスの本当の主体は2人目の自分だと分かったときに、2人目の自分が非常にクリアに見えてくる。

先発ピッチャーからリリーフピッチャーへの交代が起こる。自分が呼吸を観られないと正直に敗北を認めて、もう1人の自分へ明け渡す。
敗北した後に誰に任せるか?2人目の私に託すのである。2人目の自分が只管打坐をするのであり、2人目の自分が阿弥陀様に救われている私である。

 

2人目の自分の特色は「マインドフルネス」であり、「慈悲」であり「光」の場所。2人目の自分を本当に実感た時に、経典に書いてったことが分かる。実際にその場所に行って経験して、その場所を描写してきた経典と照らし合わせて深めていくのである。

二重構造を概念として知っていたのが、実際に体感できる時代。そして、経典に何が書いてあるかが分かるようになる。真剣に真理を探究をしてきた人にとってこんなに嬉しいことはないと思います。何より私自身、以前は難解で分からなかった事がひとつひとつ紐解かれていくことが本当に嬉しくて、ワクワクしています。

| 07:34 | comments(0) | - | pookmark |
18/04/14 「謎のX探査機」としてのマインドフルネス

18/04/14 「謎のX探査機」としてのマインドフルネス

http://www.onedhamma.com/?p=6576

 

われわれは宗教とか瞑想ということで、何をしているかというと「謎のX」の解明をしようとしていると言える。マインドフルネスとは、「謎のX」を解明するもっとも正確な方法である。探求のしかたは、科学と全く一緒で、マインドフルネスを巡り我々が知っているのは、今年2018年時点での結論なので、今後、新しい理論、発見によって塗り替えられるべきものである。

謎のXさえ解明できれば、仏教の中でキリスト教の中で、いままでなかなか理解できなかった経典が、すんなりと読めるようになる。お釈迦さまの教え、イエス様の教えを理解する事が出来るようになるから。

 

マインドフルネスがなかったときは、肝心なところに入って行くことが出来ず、入るための準備だけで終わってしまっていた。下準備に終わってしまったら、あまりにもったいない。「謎のX」の中に入ることで、今までの苦労がすべて報われる。

「対象を設定して、それを好き嫌い評価なしにありのままに観察する」というのが、マインドフルネスの定義になる。この「観察」というのが、日本の禅の伝統のなかで坐禅をしてきた人にとって、ほとんど馴染みがないので、もしそれを理解できたら、画期的なことになる。

 

我々は普段何をしているかというと、常に頭の中で映画を作ってしまっている。何かいいものを捕まえようとすることで、逆に悪いものを攻撃することによって、なんとか幸せになろうとしているのが、我々が普段やっていること。しかし、全然うまくいかない。すべてが映画だったのだとまず気づく必要がある。

観察することと、こころが作る「映画」が、いったいどういう関係になっているのかはっきりしないとマインドフルネスの本質をとらえたことにならない。


世間で注目を浴びているマインドフルネスでは、あなたの感情(怒りや貪り)に気づきなさいと言われる。世の中の大部分が「もっと怒れ、もっと貪れ」という流れになっているなかで、「怒りや貪りに気づきなさい」というのは画期的な視点である。

あなたが怒っていることに気づきなさいとは、怒りの対象をめぐって膨れ上がった映画を、それに巻き込まれずに横から見ることをさす。全部こころが作ったトリックだったのだと、映画の横から気づくことで、われわれは全く違う場所へ飛んで行くことが出来る。まるで悪い夢から覚めたように。これがマインドフルネスの奇跡である。

マインドフルネスが、いま人類全体に奇跡を起こしつつある。まるごと自分が映画にズブズブに入っていたことに気づき、全部映画に過ぎないと見破ることが起きつつある。そして見えてくるのは、マインドフルネスである主体は、別の世界に所属しているということ。普段生きている世界(第四図)と、マインドフルネスが存在する世界(第五図)が次元が違う。マインドフルネスはこの世界の外にあり、われわれは二重構造となっている。

 

評価なしとらわれなしの観察はこの普段の私にはできない。私たちは好き嫌いや評価、とらわれの存在そのものだから。今までの私(第四図の私)がマインドフルネスになることはあり得ない。映画に過ぎないと見破っているもう一人の私(第五図の私)、その私はすべてが映画だと観察してる。

もう一人のわたし、映画の外にいる私は、評価やとらわれなしに観察できる私。そこは慈悲の存在でもある。だから、慈悲を手ががりにしてそこにジャンプしようとする。それには今までの私がいったん死ないとだめなのだが、エゴの私は死にたくないと抵抗する。

マインドフルネスのキーポイントはエゴが自分ではない、ということ。エゴのまま、マインドフルネスの場所には行けないので、それを手放さなくてはいけない。そしてジャンプした先に対する信頼がなくてはいけない。

この信頼を一番持っているのは、今まで宗教の伝統のなかに生きてきた人間。どうしようもないエゴと、そこを超えたところにある「何か」を、肌で知っているひとたち。マインドフルネスを宗教と切り離すことは無理である。宗教の世界では、今まではどうジャンプするかわからなかった、でもそこにマインドフルネスという橋が架かったのである。誰もが向こう側へジャンプできるようになった。

 

 

 

 

キリスト教も仏教も、エゴを超えた「何か」に深い信頼があり、そのいわば「謎のX」とも呼ぶべきものを探究し続けてきたと言える。その謎のXをうけいれる準備が整っている状態で、マインドフルネスという具体的な橋が架かれば、直接その「何か」に触れることができ、体験する事が出来る。すごい時代に入ってきたことに、ワクワクしています。それが単なる想像でもなく、言葉でもなく、実際に分かる。

マインドフルネスが感情に気づく、怒りに気づく、というレベルではなく、全部映画に過ぎないのだと見破る、すべてが映画なんだと観察すること。これがどれだけ凄いことなのか、どれだけの苦しみを救うかと実感しています。

http://www.onedhamma.com/?p=6576

| 07:27 | comments(0) | - | pookmark |
18/04/08 「思いの手放し百千万発」が完了し、「光の中の只管打坐」が始まる

18/04/08 「思いの手放し百千万発」が完了し、「光の中の只管打坐」が始まる

http://www.onedhamma.com/?p=6572

第五図をめぐる解釈の違いについて詳しくお話してくださいました。内山老師のおっしゃる「思いの手放し」「自己ぎりの自己」「第五図」「第六図」と、マインドフルネスどう繋がるかがはっきりとわかりました。

 

内山老師のお弟子のなかには、第五図が最重要ではないと考える人達もいる。一法庵にとって、第五図こそ最重要。この違いは、ちょっとしたすれ違いではなく、仏教史を揺るがすような違いと同等である。

現在の日本仏教にとって、マインドフルネスがトリックスターの働きをしている。実際の現場では、マインドフルネスをうまく飲み込めずにいて、マインドフルネスを巡って謎の現象ばかりを生んでいる。しかし、いま、ようやく全体図が見えてきた。

内山老師は生涯を通して、「思いの手放し」をその教えの中心に置かれた。「思い」というものが、この世界の苦しみを作っているのだから、まず我々がしなければいけないのは、思いを手放すこと。では、この「思いの手放し」とマインドフルネスがどう繋がるのか。

 

マインドフルネスは「思いを手放した後に、それでも残る意識」のことである。思いの手放しは「映画」の手放し。思いを手放した後に、我々は映画を創ってきた「思い」とは全く違う意識を持つことになる。このあたりがわからない限りは第五図を理解することは出来ない。逆に、マインドフルネスを「思いを手放した後の意識」と定義すればだいたいの謎が解ける。

マインドフルネスは、今ここで、観察すること。ただし、好き嫌いや、評価なしという条件がついている。このような条件がついた観察を、「普段の私」が出来るかというと、決して出来ない。がんばって真面目にやればやるほど出来ないことが、わかってくる。

頑張れば出来ることはこの世界には多いが、それとは根本的に違う。マインドフルネスという、評価や好き嫌いなしの観察は努力しても出来ないというのが本質である。

 

マインドフルネスは今までの私には出来ない、と潔く敗北を認めたときに、何かが死ぬことによって、死なない何かが残る。死ななかったものがマインドフルネスの主体。それは明晰な意識。つまり思いを手放した後に明晰な意識が残るのである。第四図の私の特徴である、モンキーマインドではなく、第四図の外にいる意識として存在している。それがマインドフルネスの急所。第四図の外にクリアーな意識として存在する。

 

「思い」がある。そしてただ「思いを手放す」。それだけだと、マインドフルネスは観察することだと聞くと、マインドフルネスは、この「思い」に属すると思いこんで、マインドフルネスに対して疑いを抱いてしまう。

マインドフルネスは、思いを手放す訓練をしている人間にとっては、非常に居心地が悪いものに見える。要するに、全部手放せばいいんじゃないの?観察といっても、それも思いの一種でしょう、となる。

 

単なるシンキングとしての意識ではない、別種類の、別の次元に属する意識を実感させるための訓練が八正道。いままで八正道が、いまひとつ分からなかったのは、「思い」か「思いの手放し」の二つのカテゴリしかなかったから。思いを手放した後に、全然違うクリアな意識が残る、というのが結論。それが、八正道の要である七番目の「正念」。

「思い」とそれをただ「手放す」しかない人にとって、第五図は身体になってしまう。「頭で展開している世界の根本にはわが生命があった」とはこの身体をさし、そこには意識はない。身体を通して、あらゆるものがつながっている「我が生命」となる。そういう考えかたをするかぎり、確かにマインドフルネスがでてくる余地はない。そこには気づきはない。

つまり、坐禅とはこういう意味になる。

 

思いがわいて、映画を作りその中にのみ込まれて、非常に苦しい、、、だから、その思いそを手放して、この私の身体に戻る。そうして、自己、いのちに帰って行くことが坐禅。

思いを手放したところにあるのは、ただ身体であり、それが他人や大自然と繋がっている。思い以上の自己といってもそれをしっかり実感はできないもの。


「我が生命」が、意識がない身体として、大自然とつながっているというだけならば、そこにマインドフルネスが入り込む必要がない。

このような第五図の捉え方をする限り、「自己ぎりの自己」にはどうしてもならない。「ぶっつづき」ではあっても、「ぶっちぎれ」にはなっていない。
身体と解釈してしまったら第五図が解釈しきれなくなってしまう。

思いの手放しをしたあとにそれでも残る意識は、普通の思いとは異質の、違う次元に所属する意識である。第四図で「自分の意識だけがある」と想像するような独我論とも全く違う。

そういう意識としての自己がイコール世界である。これが自己ぎりの自己。
そうすれば第五図と第六図がどれだけ大事かがわかる。
マインドフルネスは思いではなく思いを超えたところによる意識のあり方。

思いの手放しがなされた後に、それでも死ななかった何かが残って、それが意識の状態。それが見える状態が光の世界。

思いが見ている世界が形の世界。思いが手放されて再び復活した何か、それは真っ暗闇ではなく、光の世界。第四図から第五図に移行した世界。

今までタブー扱いされてきた光。光は神秘の光でもなく、見えたら地獄に落ちるのでもなく、光が見えて当たり前の世界。

意識と世界はイコール。それを生きるのが第六図である。

 

※※※※※

 

マインドフルネスは思いを手放した後の意識、という説明がとても腑に落ちました。マインドフルネスを否定する人達が歩み寄り、理解して下さる可能性を感じています。光をタブー扱いしてきたことも、マインドフルネスに否定的だったのも、第五図を重要視しないのも、なんだか分からないものだったからだと思います。それがしっかりと分かれば、怖いものでもないし、マインドフルネスが仏教の根幹であり、何よりも大事なものだと分かるはずです。

日本仏教がマインドフルネスにより大きく変わって、お釈迦様の発見された本当のマインドフルネスが広がっていく事を期待しています」

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18/04/01 「観自在菩薩」と「光明マンダラ」と「マインドフルネス」を繋ぐもの

18/04/01 「観自在菩薩」と「光明マンダラ」と「マインドフルネス」を繋ぐもの

http://www.onedhamma.com/?p=6567

ヨーガの指導者を志した時から、佐保田鶴治先生は、その書籍を拝読することで、強く影響を受けてきた、私にとって憧れの存在でした。佐保田先生のおかげで、これまでヨーガを深く学ぶことが出来、その素晴らしさを知ることが出来ました。

その佐保田鶴治先生の伝統を受けつぐ「日本ヨーガ禅道院」のご仏壇で、佐保田先生のご位牌にご挨拶することが出来ました。みなさんと一緒に、山下先生の法話を拝聴し、ヨーガと瞑想をすることが出来て本当に感無量でした。

法話をまとめさせていただきました。

 

佐保田先生は光明マンダラを通して「光」というものを重要視されていた。

ではその光と、最近ヨーガでも大きなテーマになっているマインドフルネスがどう繋がるのか。今のマインドフルネスの本や記事、テレビ番組を見ても、この光については、何もでてこない。しかし、この二つは繋がるというか、それそのものである。

般若心経の最初に出てくる「観自在菩薩」とはいったい誰か?「観」とは「ありのままに観ること」で、それは「マインドフルネス」のことである。光明と般若心経、そしてマインドフルネス、実はこの三つが繋がっている。光明はある偉い人に特別に見えるという話ではなく、誰もが見えるものである。

 

マインドフルネスを素直な日本語に訳すと「気づき」となる。どういう風に気づけばいいかというと、好き嫌いなしに気づく、ありのままに気づく、評価なしに気づく、となっている。我々の心をありのままに観察することが、ヴィパッサナーなんだよ、という話になる。しかし、これだけでは光も観自在菩薩とも繋がってこない。

自分の心に気づくとはどういうことか。あなたが誰かに怒りを持っている、と気づきなさい。

私がいろんなものを対象として考える。それに対して怒りや貪りを感じる。


例えばパートナーに対して怒っていて、その怒りが膨れ上がる。そこには私と怒りの対象しかない。そのとき、「私が誰かに対して怒りを持っている」ことそのものに気づきなさいと、言われる。ここでまったく違う方向から来る視線が強調され、いままで考えたこともない方向なので、不意打ちを食らい、怒りはいつの間にかなくなっている。怒っていると気づくだけで、怒りから出ることができる、怒りに閉じ込められているということに気づくことで、そこから自由になる。

最初の一回はそれに気づくというだけで、奇跡が起こってそこから出ることが出来る。怒っている事に気づくという視線は、今までの人生にはなく、初めての事なので、このぐちゃぐちゃから出ることが出来る。これがマインドフルネスが世間に席巻している理由。マインドフルネスの奇跡とも、マインドフルネスの魔法とも呼ぶべきもの。

 

般若心経の主人公である「観自在菩薩」の「観」は観ることであり、つまりマインドフルネス。般若心経はマインドフルネスのお経。
観るのが自由自在になる。今までの私は不自由。マインドフルネスを習った最初だけは、怒りそのもの気づいて無くなったのに、しばらくすると、いくら怒りに気づいても怒りが止まらない、というのが現状。

怒ったり、執着している私。そのことに気づいている私。二つの私は、全然違う私、というのが鍵である。ここがはっきりしなかったので、いままでの自分で気づいても奇跡は起こらなかった。奇跡は一回のみだった。

「観自在」つまり観ることが自由自在にできるとき、その自分はどこにいるかというと今の自分の外にある。般若心経は第五図からみた世界を描写したもの。

 

マインドフルネスの急所は今までの自分(第四図)とそれに気づいている自分(第五図)が全く違う自分なんだと言うこと。

今までの私は、モンキーマインドで一日中いろんな事を考えている。
何が苦しいのか、何が自分を苦しめているのか、それは自分自身の心である。未来の心配や過去の出来事を常に思い出している自分の心が苦しみの原因。

我々がこの場所(第五図)に立ったとき、そこは光の世界。この世界はもともと光で出来ている。それに対して、頭の中の映画にはまり込んでいる我々には、光など見えていない。

瞑想は現実からはなれた神秘の世界に行くのではなく、今までの妄想の映画の世界(第四図)を離れて、リアリティの世界(第五図)に戻ってくること。そしてリアリティの世界とは光の世界。

 

思い込みの世界、妄想の世界を出て、この世界が光で出来ていると知る。普段の私たちは、一日中考えごとをしている、だからそこから出るための最初の手段は身体を感じることによって、一日中考えているのを止めて、妄想世界から出る。

瞑想は現実逃避ではなく、現実に戻ること。今までが妄想の世界に生きていた。
光の中にマインドフルネスがあり、そこは自由自在に観れる場所。
そこには生も死もない世界なのである。

 

※※※※※

 

瞑想の本尊である「光明マンダラ」を拝見し、その美しさ、エネルギーに圧倒されました。佐保田先生が光をなによりも大事にされていたのだと分かり、本当に感動いたしました。光を本尊とされ、瞑想されていたとは、存じ上げませんでした。そして般若心経も大事に唱えられていたようで感激でした。佐保田先生も同じように光の中でヨーガをされていたのだと、それをずっと残して伝えていきたかったのだということがはっきりと分かりました。

「光の中のマインドフルネス」と佐保田先生の「光明マンダラ」が繋がり、ヨーガ行者として最高の瞬間に立ち会えたことがとても嬉しかったです。山下先生が私たちの本質が光だと伝えていらっしゃることと、佐保田先生の伝えたかったことが一緒だったと知り、深い感動と驚きを感じています。

この日本ヨーガ禅道院での会で感じた事、学ばせていただいた事が、これからヨーガとマインドフルネスを伝えて行く活動にも大きな自信になりました。
日本のヨーガ会が大きく変わっていく分岐点になりそうです。

| 05:57 | comments(0) | - | pookmark |
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